ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙(その2)

(前の記事からの続き)


●全員が携挙される

これらの注解や辞典によれば、汽灰螢鵐硲隠犠呂能劼戮蕕譴討い觧犲圓良鉷茲籠僘里諒冕討蓮携挙の際に起こるものということになります。

汽謄汽蹈縫隠款呂鉢汽灰螢鵐硲隠犠呂鮃腓錣擦胴佑┐襪函▲リスチャンは全員携挙されるということが浮き彫りになります。というのは、汽灰蝪隠機В毅韻法峪笋燭舛呂澆福◆ΑΑκ僂┐蕕譴襪里任后廚箸△襪らです。「みな」とはクリスチャン全員のことです。一部の忠実なクリスチャンとは書いてありません。みなが変えられるのです。

そして、変えられたクリスチャンたちは一挙に引き上げられて空中で主と会うわけですから、地上に残されるクリスチャンはいないとうことになります。(仮に一部のクリスチャンしか携挙されないとすると、朽ちない栄光の体に変えられた状態で地上に取り残されるクリスチャンがいることになります。しかし、そのようなことは聖書にはまったく書かれていません!)

もちろん、クリスチャンであると告白してはいても、ボーンアゲンしていない人は別です。宗教的な動機で教会に通い、教会に所属していても、主なる神と生きた交わりを持たず、福音が信仰によって結びついていない人、体験的に主イエスを知らない人は、エクレシア(キリストによって呼び出された者たちの集まり)に含まれません。しかし真の救いを受けているクリスチャンは、みな朽ちない体に変えられて携挙されるのです。

このことを別の注解によって確認してみましょう。


The dead in Christ will hear the shout first and experience His quickening power; they shall be raised incorruptible. What power will then be manifested! "Then we, the living, who remain, shall be caught up together with them in clouds to meet the Lord in the air; and so shall we ever be with the Lord." All believers who live on earth when the Lord comes will hear that commanding, gathering shout. It does not include those who only profess to be Christians and are nominal church-members, nor are any excluded who really are the Lord's. (The so-called first-fruit rapture, which teaches that only the most spiritual of all true believers, who have made a deeper experience, etc., will be caught up, and the other believers, though they are true believers of God, will be left behind to pass "through the great tribulation," has no spiritual foundation and is wrong.) The question, "Who will be caught up into glory?" is answered in 1 Cor. 15:23 -- "All who are Christ's." The change will be "in a moment, in the twinkling of an eye" (1 Cor. 15:52). Then this mortal will put on immortality. It will be the blessed "clothed upon" of which the apostle wrote to the Corinthians: "For in this tabernacle we groan, being burdened; not for that we would be unclothed (death) but clothed upon, that mortality might be swallowed up of life" (2 Cor. 5:4). Then our body of humiliation will be fashioned like unto His own glorious body. it is the blessed, glorious hope, not death and the grave, but the coming of the Lord, when we shall be changed. And it is our imminent hope; believers must wait daily for it and some blessed day the shout will surely come.



キリストにある死者は、まず「号令」を耳にします。そして「生かす御霊」の力を体験します(訳注:汽灰蝪隠機В苅機法そして死者たちは、朽ちない体によみがえるのです。何と凄まじい力の顕われなのでしょう。次に「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」主が来られるときに、地上に生き残っているすべての信者は、主による召集の「号令」を耳にします。この召集の号令には、自分はクリスチャンであると告白しているだけの人々は含まれません。名ばかりの「教会の会員」も含まれません。本当の意味で主に属している者以外は、除外されます。(いわゆる「初穂の携挙」という教え、つまり、すべての信者の中でも最も霊的であり、深い霊的体験をしている者だけが携挙され、他のクリスチャンたちは真のクリスチャンではあるけれども大患難を通るために地上に取り残される、という教えは霊的な根拠がなく、誤りです。)「栄光のうちに携挙されるのは、どういうクリスチャンか」という問いに対しては、汽灰螢鵐硲隠機В横海答えを出しています。「キリストに属している者すべて」です。変貌については、「たちまち、一瞬のうちに」起こります(汽灰蝪隠機В毅押法そのとき、朽ちるものは、朽ちないものを着るのです。それこそが、使徒がコリントのクリスチャンたちに向けて書いた祝福です。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(競灰螢鵐硲機В粥砲箸△訥未蠅任后そのとき、私たちの惨めな着物は、主ご自身の栄光の体と同じように着せ替えられるのです。祝福と栄光に満ちた希望とは何かといえば、死でも墓でもなく、主の来臨です。そのとき私たちは、変貌するのです。この希望はすぐにでも起こりうるものであって、クリスチャンたちは日々その訪れを待ち望むべきです。いつの日か、祝福の号令が必ずや響き渡ることでしょう。

(「THE FIRST EPISTLE TO THE THESSALONIANS」、Arno Clement Gaebeleinより抜粋、翻訳)
http://www.biblecentre.org/commentaries/acg_56_1_thessalonians.htm