ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙(その3)

(前の記事からの続き)


●マタイ25章の10人の娘たち

日本の、ある教会の牧師は、マタイ25章の賢い娘と愚かな娘の例え話を根拠にして、クリスチャンでも携挙されない人たちがいて、その人たちは大患難を通されると教えています。果たして、そのような解釈は正しいのでしょうか。

その方の解釈において、「娘」は教会、つまり、救われたクリスチャンであることが前提になっています。それゆえ、花婿の家に入れてもらえず、「私はあなたがたを知りません」と言われてしまう愚かな5人の娘たちは、クリスチャンでありながら携挙されなかったという解釈になっています。

しかし正しい解釈はそうではありません。

3節に「愚かな娘たちは、・・・油を用意しておかなかった」とあります。この「油」という言葉は、聖霊を意味しています。つまり愚かな娘たちは聖霊を持っていなかったのですから、信者ではなかったのです。

日本語の聖書で「用意しておかなかった」と訳されているギリシャ語の動詞は、ランバノーという言葉で、「取る」「手に取る」などを意味します。ですから欽定訳では、takeの過去形tookを使って3節をこう訳しています。


They that were foolish took their lamps, and took no oil with them:
        
(直訳)愚かであった彼女たちはランプを手に取ったが、油は取らなかった。


油を取らなかったということは、聖霊を受け入れなかったということですから、愚かな娘たちは、真の信者ではないのです。

12節では、主イエスが「私はあなたがたを知りません」という表現を使っています。この表現は、救われていない人たちに対して使われる表現です(マタイ7:23参照)。


次のL.M.グラントによるマタイの福音書25章の注解をご覧ください。

1節~3節
The five wise are true believers, the five foolish not so, and got outwardly claiming to be, for they also "go forth to meet the bridegroom," and they carry lamps. But their lamps have no means of shining, since they take no oil (typical of the Holy Spirit) in their vessels, the vessel signifying one's body. For in this present dispensation, "if any one has not the Spirit of Christ, he is not of Him" (Romans 8:9). The wise have oil in their vessels, together with their lamps.


賢い5人は真の信者で、愚かな5人はそうではありません。愚かな5人は、表面的には信者であると告白しています。というのは、彼女たちも「花婿を出迎え」ますし、ともしびを持っているからです。しかし彼女たちのともしびは輝くはずはありません。なぜなら彼女たちは、入れ物の中に油を持っていないからです(油とは聖霊のことです)。入れ物とは、人の体のことです。今の時代においては、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ8:9)。賢い娘たちは、ともしびと共に入れ物の中に油も持っています。

(「Comments on the Gospel of Matthew」、 Leslie M Grant より抜粋、翻訳)
 http://www.biblecentre.org/commentaries/lmg_44_mattew.htm#CHAPTER%2025


●まとめ

聖書は、携挙に預かるための特別な条件を要求していません。ただイエス・キリストを真実に救い主として信じることだけです。これは救いと同じ原則です。実際、この日記の第二部では、携挙が救いの一部(肉体のあがない)であることを述べたいと思っています。

携挙は、未信者にとっては、神の裁きの時代への突入を意味しますが、真のクリスチャンにとっては、喜ばしい祝福であり、恵みによる勝利の凱旋なのです。救いの完成とも言うべき携挙に関して、条件を付けてはならないのです。