ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙と救いの関係(完結編)

最後に、真の信者は、もれなくキリストの裁きの座と、そのあとに来る千年王国に導かれていることを是非覚えてください。もし携挙が神の恵みの最終局面であるなら、ひとり一人の聖徒は、キリストの裁きの座に必ず立つことになります。裁きの座は、各信者がその責任を省みるための最後にして最大の場です。御国に入るのは、そのあとです。御国では、裁きの座における結果が具体的に現われます。裁きの座で、私たちが「肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」ことになるからです(競灰蝪機В隠亜法 その結果によって、報酬を得るか、損失を受けるかが決まります(汽灰蝪魁В隠粥腺隠機法8羚颪貌?觀辰澆鯔かに受けるか、それとも貧相に受けるかです(競撻謄蹌院В隠院法


かの日において、各自の裁きの結果はどのようにして決まるのでしょうか。それは、私たちが地上でどう生きるかによります。つまりキリストへの奉仕と、キリスト者ゆえに受ける苦しみ、そして、どれだけキリストの(似)姿に近づけるかによるのです。


その詳細を調べることは、この論文の範囲を超えています。この紙面では、恵みの何たるかを考えるに当たり、バランスの問題として最低限必要なことを述べるにとどめます。バランスよく真理全体を捉える必要があるからです。


選抜的携挙、あるいは、部分的携挙を熱心に教える方々の多くは、大半のクリスチャンの霊性が低いと感じています。選抜的/部分的携挙論者たちは、クリスチャンたちの霊的無関心を覚醒するため、また、脅しに近い方法で信者の献身と熱心と敬虔な終末観を引き出すために、刺激的な真理を求めているのです。それが彼らの願いであり、意識です。そしてそうするために必要な道具を彼らは見つけました。それが、選抜的/部分的携挙説です。


しかしそれは、本当に真理なのでしょうか。そうではありません。キリストの裁きの座と御国の到来に関する真理が、信者の熱心さの起爆剤として適切であれば話は別ですが、実際のところ中心的な動機になっていません。また、なり得ません。そのような間違った携挙論は、霊的覚醒の起爆剤には程遠いものです。キリスト者を熱心にさせるものは、≪恵み≫以外にはあり得ません。動機を強めるのは、恵みだけです。律法ではありません。処罰に対する恐怖心でもありません。しかし恵みは、人生のあり方を教えます。テトス2:11~13に、「すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです」とあるとおりです。


恵みによって、あなたは救われました。そして同じ恵みが、携挙の瞬間に、あなたをキリストにある栄光の中に導きます。私たちは、あなたが霊的眠りから覚めるよう喚起します。あなたがカレブのように、全身全霊で主に従うようお勧めします。というのは、あなたの地上での働きが、裁きの座の前で吟味され、その結果によって、来るべき御国において報いが与えられるか、損失がもたらされるかが決まるからです。人生は一度しかありません!どうぞ熱心であってください。


けれども、恵みをあなたの心の糧としてください。エリヤがそうであったように、かの日に至るあなたの霊的な旅が、恵みによって強められますように。地上再臨の時には、主は「ご自分の≪すべて≫の聖徒とともに」来ると書かれていますから(汽謄毅魁В隠魁法△修料阿坊筏鵑里燭瓩砲笋辰突茲蕕譴襪箸に、≪すべて≫よりも少なく引き上げるということはあり得ないのです。そのことを信じてください。


F.B.ホール