ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストを受け入れることはキリストに連なるすべての者を受け入れること

エスは、繰り返しこのように言っておられます。「わたしが遣わした者を受け入れる者は」と。

ベタニヤは、キリストが遣わしたすべての者を受け入れるところです。いいえ、キリストに属するすべての者を受け入れるところです。

一部の兄弟姉妹は受け入れても、他のクリスチャンたちを拒絶する教会は、キリストを受け入れていないのです。主が遣わした一部の働き人は受け入れても、他の働き人を拒むなら、その教会はキリストを受け入れていないのです。

例外:キリストにある一致に敵対する者たちは、受け入れてはなりません。流派主義者、また分裂をもたらして自分たちのムーブメントに取り込もうとする者たちは受け入れることはできません。それは不和の霊であり、反キリストだからです(ローマ16:17)。

こんにちのハウスチャーチに対する大いなる誘惑について、はっきり述べたいと思います。世捨て人になること、内向きになること、孤立すること。それが、ハウスチャーチにとっての誘惑です。

ベタニヤは、キリストが受け入れているすべての人々を受け入れます。そして歓迎されます。

それ以外の対応は、「主よ。私たちはあなたの手と腕は受け入れますが、足はほしくありません」と言うことです。

排他的になるということは、イエス・キリストの体を分割することです。

おもしろいことに、イエスを信じていないユダヤ人ですら、ベタニヤではイエスを歓迎する心を持っていたようです(ヨハネ12:9)。

ベタニヤは主イエスと同様、すべての人に心を開いていました。

キリストは自分が歓迎されると、自分を歓迎した人々を訪ねてくる他所の人々までも歓迎してくださるお方なのです。彼には人を歓迎する資質、魅了する性質、他者を引きつける何かがありました。それは、イエス・キリストが放つ歓迎の香りです。

私たちはキリストを歓迎し、キリストはご自分に属する者たちをみな歓迎する。それが教会というものです。

悲しいことに、私は、訪れる人を招き入れる雰囲気、歓迎する雰囲気のない多くのハウスチャーチに出会いました。それどころか彼らは、排他的で偏狭な空気すら吐き出していました。そういうものは、ベタニヤの精神を裏切るものです。そういう教会は、主を完全には受け入れていないことを露呈しているのです。

要するに、主はご自分が完全に受け入れられ、心から歓迎される場所を探しているのです。余分なものが付け足されたキリストではなく、何かが欠けているキリストでもない。純粋なキリストそのものを受け入れてくれる場所を。

神は、キリストを自分たちのすべてとしてくれる民を求めています。それこそ、神が願い求めている教会なのです。