ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

マリヤから学ぶこと

物語に戻りましょう。マリヤが座っているのは、どこでしょうか。主の足元です。これこそ、弟子たる者の居場所です(使徒22:3)。主の足元でマリヤは何をしているのでしょう。主の言葉を聞いているのです。彼女のまなざしは、食い入るようにキリストに向けられています。そして主の言葉に、細心の注意をもって耳を傾けています。

注:使徒22:3の「ガマリエルのもとで」は、ギリシャ語では「ガマリエルの足元で」と書かれている。

十二弟子も、間違いなく主の足元にいたことでしょう(ルカ10:38を見ると「彼らが」とあり十二弟子が一緒だったことがわかります)。

一体これは何でしょう。麗しい教会の集まりそのものではありませんか。

教会として私たちが集まるとき、私たちはイエス・キリストの臨在の中に入ります。主が私たちの只中におられるのです。そして語っているのです。

この箇所では、イエスは肉のからだを通して語っています。けれどもこんにち、主は別の方法で語ります。私たちはみな、その方法を知っているはずです。それは牧師ですよね。

違います!主は今でも、ご自分のからだを通して語るのです。霊の体を通して。牧師ではありません。長老たちでもありません。キリストのからだである私たちを通して語るのです。(牧師は小指のようなものです。キリストはからだ全体を通して語るのです。)

私たちが集まるのは、主をあがめ、主を礼拝するため、またひとり一人を通して語られる主の言葉を聞くためです。そして私たちは、その言葉によって生きるのです。

要点はこうです。みなさんが集会をして、それが終って帰るとき、いつもこういうふうに言えることが望ましいのです。「主は今日もまた語ってくださった。今日の集会を通して、主はご自身を表してくださったなあ」と。

そのためには、私たちひとり一人がマリヤになる必要があるのです。ひとり一人が週の合間に主の足元に座り、主から学ぶ必要があります。そして集会に集ったなら、すぐる一週間に主が学ばせてくださったことを、互いに分かち合う。

私はみなさんが、週の合間に二人で組になり、主にある交わりの時間を持つことを本気でお勧めします。そのような交わりを週の合間に持ち、その上で集会に集うのです。マリヤは一人で主の足元に座っていたわけではありません。十二弟子も一緒にいました。ラザロもいたかもしれません。

つまりベタニヤとは、兄弟姉妹たちが「ともに」主の足元に座るところなのです。「共同で」主に従うのです。これこそ、真の教会が真っ先に学ぶべきことです。