ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

出会い その2  紀元30年初期

テキスト:ヨハネ11:1~44

上記の場面は、教会に対する主の願いであるベタニヤの意味をさらに掘り下げていきます。

●愛と友情

この話の初めのところで、イエスがマルタとマリヤとラザロを「愛していた」ことがわかります。その愛は確かに感じられ、伝わっていました。その証拠に、マリヤとマルタがこう言っています。「あなたが愛しおられる者が病気です。」

彼らに向けられた主の愛は、抽象的なものではありませんでした。彼らはその愛を知っており、堅く信頼していました。

エスがラザロを「友」と呼んでいることを覚えてください。主がこう言っています。「私たちの友ラザロは眠っています。」(11節)

ヨハネ15章で、主は弟子たちにこう言っています。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びます。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

愛と友情。この2つの言葉は、ベタニヤの心を代弁しています。ベタニヤはイエス・キリストがご自分の民を愛するところです。そしてご自分の民もその愛を疑いません。またそこは、友情の場でもあります。生ける神との友情です。

この2つの言葉は、キリストの心を表しています。主はしもべではなく、友を求めているのです。主は隷属ではなく、愛を求めているのです。

エルサレムの冷たい神殿の中では、人々は神に仕えました。けれどもベタニヤの団らんの中では、人々はイエスを愛し、イエスの友となりました。

この箇所を読んだとき、私は主がこのように語られるのを感じました。「わたしがこの世に来たのは、仕えられるためではありません。友を見出すために来たのです。愛し愛されるために来たのです。人々をふところに抱くために来たのです。わたしの友に、心の奥のあるものを伝えるために来たのです。なぜなら友といると、やすらぐことができるからです。」

これこそベタニヤの意味するところです。そしてこれこそ、主が教会に求めておられることです。