ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ベタニヤにおける危機

先へ進みましょう。ベタニヤで、危機的な出来事が起こりました。ラザロが死んでしまったのです。私は、この状況においても、イエスが主であることに感銘を受けます。この出来事は、完全にイエスの支配のもとで進行しています。イエスの側には、何一つ思い煩うことはなく、急ぐ必要もなく、心配することもありません。この状況の初めから終わりまで、イエスが父なる神に聞き従っていることは明らかです。

マルタが、実に彼女らしい行動をしていることに注目してください。妹よりも先に走って行きます。

けれどもマリヤを見てください。彼女も、まったく彼女らしい行動をしています。彼女はまたもや、主の足元にいるのです。

混沌とした状況です。深い悲しみが主を取り巻いています。周囲は、嘆きと悲しみで一杯です。主の最大の敵である死が、主の愛する者を取り去っていきました。

主は深い激動を感じています。このことから、神は私たちの悲しみに対して、敏感に反応するお方であることがわかります。主は、ご自分がラザロをよみがえらせること知りつつも、悲しみよって揺り動かされています。その悲しみが、マリヤやマルタ、また村全体を苦しめているからです。

息が止まるほどの驚くべき出来事が起こります。全宇宙を創造した方が、友の墓で涙を流しています。そして、よみがえりでありいのちである方が、その友を死からよみがえらせるのです。

ここで私たちは、ベタニヤのもう一つの側面を垣間見ます。それは、危機と復活です。

神は、復活、つまり新しい創造によって、すべてを再出発させます。しかしこの復活は、苦しみや悲しみといった危機的状況と、常に隣り合わせなのです。

ベタニヤには、危機があります。苦しみがあります。また敢えて付け加えますが、ベタニヤには死があります。教会の回復のために立ち上がる兄弟姉妹たちは、十字架を負うのです。彼らは死を通されます。放っておかれ、互いに苦しみ合い、話し合うこともままならず、向上心にも、意見にも、好みにも、功名心にも死ぬことが求められます。これがエクレシアを建て上げるための、神のやり方です。死を通されることによって主のいのちが現され、イエス・キリストの家族として共に築き上げられてゆきます。神はまず私たちに、死をもたらすのです。復活はそのあとに来ます。

言い換えると、こうです。みなさんがイエス・キリストのために家を建てるなら、困難な時がやって来ます。危機がやって来ます。兄弟姉妹が困難を通されます。

しかし忘れないでください。死なくして、よみがえりはないのです。そして危機に直面することなしに、勝利の主を知ることはできません。

エクレシアは、よみがえりの中で生きるのです。ですから、まず主の復活のいのちが現される前に、死ななくてはならないのです。

パウロの言葉を注意深く聞いてください。「(私たちは)いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかにされるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」(競灰螢鵐硲粥В隠亜檻隠押法

死がやって来ると、私たちは他の人々を責める傾向があります。私たちは苦しみを避けたいあまり、苦しみの原因となっている人たちを責めがちです。けれども忘れないでください。神は復活をもたらすお方ですが、同時に十字架ももたらすのです。この二つは表裏一体です。つまり神は、私たちを神の似姿に作り変えたいのです。

ですから苦しみは、作り変えのために、なくてはならないのです。

私は、マルタとマリヤが通った苦しみに関して、二人をほめたいと思います。二人とも死に直面したとき、主にしがみつきました。しかし主は、彼女たちの願い、彼女たちの希望をかなえませんでした。弟を死なせた・・・。これが彼女たちの思いだったでしょう。けれども、それでも二人は主にすがりつきました。