ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

主の臨在の中で宴を持つ

出逢い その3  紀元30年3月

テキスト:ヨハネ12:1~8

ここでは、類まれなるベタニヤの全体像を見ていきます。イエスに敬意を表して宴が催されます。イエスは主賓の位置に座っています。これこそ誉れある位置であり、最高位であり、中心にされていることの表れです。そこには宴があり、交わりがあり、喜びがあります。

このヨハネの箇所と同じ記事が、マタイ26章とマルコ14章にあります。それらの箇所には、ヨハネが書いていないことも書かれています。なのでこれら3つの記事をまとめた形で、話を進めていきます。(この物語と、ルカ7章の罪深い女がイエスの香油を注いだ物語と混同しないようにしてください。)


●主の臨在の中で宴を持つ

宴は、らい病人シモンの家で行なわれました。おそらくシモンは、過去にイエスによっていやされたのでしょう。この宴の場面では、すでにきよめらたらい病人です。しかし、いくららい病がいやされたといっても、汚名を着せられた過去を背負っていることには変わりありません。人々は今でもシモンを敬遠して村八分にしています。

しかしイエスは違います。

ポイント:神の家は、きよめられたらい病人で構成されているのです。私たちは、いやされたらい病人なのです。らい病は罪の象徴でした。私たちは、霊的ならい病に感染していたのです。そしてイエスが触れてくださり、いやしてくださったのです。

客の中にはラザロもいます。死人の中からよみがえらされた人物です。

きよめられたらい病人たち。よみがえらされた人間たち。みなが食卓についています。その食卓は、イエスが第一の席についている場所です。そしてそのイエスとともに、宴があり、交わりがあり、喜びがあります。これこそベタニヤです。これこそ教会なのです。

またもマルタは、彼女らしい行動をとっています。食卓に仕えています。でも今回は、心配したり、気をもんだりはしていません。なぜでしょうか?それは彼女が、通るべきところを通ったからです。

以前とはどこかが違っています。わかりますか。長い間イエス・キリストのみそば近くにいたら、誰でも変えられるのです。キリストの臨在が私たちを変えるのです。

ベタニヤでは、主によって人が造りかえられます。キリストの復活のいのちによって、私たちは変えられるのです。そして過去に私たちを縛っていたものは、断ち切られます。

5ヶ月前のことです。マルタは肉によって仕えていました。でも今は、復活したマルタとして仕えています。ですから心配しません。気をもむこともありません。思い悩むこともないのです。主イエスに不平不満を言うこともなく、注意されたり、罪を指摘されたりすることもありません。他人が何をしていようが、していまいが、もう気にならないのです。奉仕と交わりのバランスがとれており、彼女は自由になりました。

マリヤも彼女らしく振舞っています。またもや、主の足元に座っています。

それではここで、お話から一歩退いて、自分で思い描いてみてください。ここは主の臨在の中で持たれている家族の団欒の場です。みな、主イエスと一緒にむしゃむしゃ食べています。これは、なんとも美しい教会の姿ではないでしょうか。

ここで考えてほしいことがあります。地上での最後の6日間、イエスが共に過ごしたのは、十二弟子のほかに4人しかいませんでした。どこへ行っても拒絶されたイエスに、やすらぎを提供できたのは、たったの4人しかいなかったのです。マリヤとマルタ、ラザロとシモンです。これはメガ・チャーチの精神に、真っ向から対抗しているのではないでしょうか。

ベタニヤは大きくありません。小さな村でした。総人口は、おそらく1000人未満だったでしょう。けれども、あなたの主がやすらぎを得るために選んだ場所は、そこだったのです。この事実は、神が量よりも質にこだわっていることを証明しています。