ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「十二使徒の教訓」 その1

使徒教父文書」を読んで

初期の教会について学ぶ中で、「使徒教父文書」なるものに興味を持った。ここでは、その感想を書こうと思う。

使徒教父文書」とは、うんとわかりやすく言うと、新約聖書になりそこなった文書である。著者たちは、自分が使徒であると主張していない。そのため、正典として認められなかったそうだ。

しかし使徒教父文書の成立年代は、新約聖書の成立年代と重なっており、ある時代のある地域の教会においては、新約聖書と「同等、あるいは類似の位置に置かれた」そうである。

*成立年代
新約聖書:紀元50年代~150年代  使徒教父文書:紀元90年代~150年代


●そもそも「教父」とは何ぞや?
辞典にはこうある。「古代~中世初期にかけて異端に対して正統のキリスト教を主張する教会著作家。説教が正統であること、生活が清潔であることなどが教会から認められものの尊称で、その著作は信者に対して聖書につぐ権威を有する。」


●「十二使徒の教訓」 おもしろいと思った箇所-その1-
7章「洗礼については、次のように洗礼を授けなさい。・・・流れる水によって、父と子と聖霊の名をもって洗礼を授けなさい(マタイ28:19)。流れる水がない場合には、他の水で洗礼を授けなさい。冷たい水でできない場合には、温かい水でなさい。どちらの水もない場合には、頭に水を三度、父と子と聖霊の名をもって注ぎなさい。洗礼の前には、授洗者、受洗者、また他に誰か可能な人たちがいるならば、(その人たちも共々)断食をなさい。受洗者には、(洗礼に)先立つ一日か二日断食するよう命じなさい。」


感想1:洗礼のやり方に、「滴礼」というのがあるが、これは上記の「どちらの水もない場合」そのものである。滴礼の発祥は、ここにありという感じ。


感想2:新約聖書には、洗礼の前に断食して祈るという記事は皆無。信じたばかりの人に断食を求めるのは、ちょっと無理があるだろうと思う。


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