ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

心を刺される話

みなさんのために、例話を作ってみようと思います。マリヤがイエスに香油を注いだのは土曜日でしたが、その前日の金曜日に話を戻しましょう。

主がマリヤ、マルタ、ラザロ、そしてらい病人のシモンと共に座っています。イエスが言います。「親愛なる友たちよ。この週は、わたしが地上で過ごす最後の一週間です。これからわたしは、毎日エルサレムを訪れますが、そこで夜を過ごすことは一晩たりともありません。今週は毎晩、あなたがたベタニヤの人たちのところに宿泊します。わたしの居場所を用意してくれますか?わたしを招いて食事をさせてくれますか?そしてわたしが枕するところを提供してくれますか?」

マリヤが答えます。「主よ。私が時間を取れるのは明日だけです。他の日は空いていません。先約があるのです。申し訳ありませんが。」

マルタも言います。「主よ、すみません。今週は、おいっこをサッカーの練習に連れて行かないといけませんし、結婚式にも参列しないといけません。それに、お料理の講習会もあるのです。申し訳ありません。忙しくて。」

主はあたりを見回して、ラザロに目を留めます。彼もうなだれて答えます。「主よ、ほんとうに申し訳なく思いますが、私も空いているのは明日だけです。あとの日は、友だちと出掛けてしまいます。ガリラヤ湖畔でパーティーをするのです。」

最後にシモンが答えます。「すみません、主よ。明日は空いているので私の家で食事をすることができますが、あとは予定が詰まっています。月曜の夜はお気に入りのテレビ番組がありますし、火曜日は遅くまで仕事です。ですから誰かとお付き合いする余裕はありません。水曜の夜はボーリングをすることになっていますし、木曜日は旧友の家に行くことになっているのです。そして金曜日は陶器作りの講習会があります。申し訳ありません。毎日、忙しくて。」

上記の例話を一言で要約すると、こういうことです。「主よ。時間を割いてお付き合いするほど、あなたは大切な存在ではありません。」

主は、ご自分を最優先してくれる人たちを探しておられます。過ぎ去りゆくこの世のことに捕らわれることを拒否してくれる人たちを求めておられます。

自分の時間を、教会の兄弟姉妹のために割く人々を求めています。定期的に集会を開き、共に主の足元に座り、食事を共にする人たち、主を愛する人たち、主を知ろうとする人たち、そしてみからだの一部となる人たちを探しています。

ベタニヤに召されるということは、個人的な祈りや聖書研究に召されることとは違います。そういうこととは、まったく違います。ベタニヤに召されるということは、共同体として生きるということです。イエスが憩うことができる場、イエスが枕する場を提供するエクレシアとして生きることです。初代教会の人たちは、毎日、集会に集っていました。日常生活を分かち合っていたのです。

教会は、私やあなたを、より良い市民にするために存在しているわけではありません。それは副産物にすぎません。教会とはそんなものではありません。教会は一つの社会であって、世の中の足りないところを補う場ではありません。それ自体で一つの世界であり、その中で私たちは、神の民としての人生を生きているのです。神の民は、コミュニティーとして人生を共有して生きるのです。

誤解しないでください。イエス・キリストへの献身と教会への献身を分けて考えることはできません。神はベタニヤを欲しておられます。キリストを最優先する兄弟姉妹で構成された霊の家族を。

あなた一人では、キリストの家になることはできません。信じる者たちから成るコミュニティーである必要があるのです。そしてそのコミュニティーのために、あなたは自分の時間を費やすことになります。とても多くの時間を。

それでは、次に第4番目のお話に進みましょう。


ご親切な方は、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/protestant/ にほんブログ村 プロテスタント