すべてのものの上に座している
出逢い その4 紀元30年5月
テキスト:ルカ24:50~53
ベタニヤには死がありました。また蘇えりがありました。そして今や、昇天が起こりました。
このお話では、イエス・キリストが天界に昇っていく場面について語ります。イエスはどこから昇天しましたか? ベタニヤからです。
この場面の雰囲気を捉えてください。祝福があります。礼拝があります。大きな喜びがあります。神の支配があります。イエスが天に引き上げられたあと、弟子たちは神殿の庭で定期的に集まり、生ける神を礼拝していました。つまり、彼らはベタニヤであり続けたのです。
●すべてのものの上に座している
この箇所には非常に深い意味があります。イエス・キリストは昇天したことによって、いっさいのものの上に立つ絶対的なかしらとして王座に付きました。すべてのものは、キリストの足の下に置かれたのです(エペソ1:20~23)。
パウロによれば、私たちもまたキリストと共に天に昇り、天の所にすわらせていただいています(エペソ2:5~6)。
今はこのことの意味を、すべて調べている時間はありません。けれども、これだけ言っておきます。もしみなさんが、自分を天におられるキリストと同じ位置に置くなら、みなさんの祈りの生活は劇的に変化するでしょう。もはや自分の状況を変えてほしいと神に求めたりはしなくなります。それどころか、みなさんは、キリストがおられるのと同じ場所、つまり天の王座から祈ることになるのです。そして、キリストが自分をどのような存在にしてくださったかを、あなたは宣言することでしょう。
私たちはキリストと共に、天の所に座っているのです。そしてすべてのものはキリストの足の下にあるのですから、それはとりもなおさず、すべてのものが私たちの足の下にあるということでもあるのです。この霊的現実を忘れないように、互いに思い起こさせ合う必要があります。またそのことを共に信じる必要があります。
ベタニヤは、私たちが霊的に高く引き上げられる場なのです。
それだけではありません。キリストが天に昇ったわけですから、キリストは教会に対して、ご自分がいっさいのもののかしらであることを明らかにされたのです。ですから、かしらなるキリストに服従し、キリストを世の中で証しすることは、私たちの責務です。ベタニヤとは、人ではなく、イエス・キリストがかしらとしての地位を占めている場です。そこではキリストのみがかしらです。単に言葉上でではなく、実生活においてです。キリストは単なる賓客ではありません。一家の主(あるじ)です。ですからその家は、キリストに所有される必要があるのです。
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ベタニヤには死がありました。また蘇えりがありました。そして今や、昇天が起こりました。
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●すべてのものの上に座している
この箇所には非常に深い意味があります。イエス・キリストは昇天したことによって、いっさいのものの上に立つ絶対的なかしらとして王座に付きました。すべてのものは、キリストの足の下に置かれたのです(エペソ1:20~23)。
パウロによれば、私たちもまたキリストと共に天に昇り、天の所にすわらせていただいています(エペソ2:5~6)。
今はこのことの意味を、すべて調べている時間はありません。けれども、これだけ言っておきます。もしみなさんが、自分を天におられるキリストと同じ位置に置くなら、みなさんの祈りの生活は劇的に変化するでしょう。もはや自分の状況を変えてほしいと神に求めたりはしなくなります。それどころか、みなさんは、キリストがおられるのと同じ場所、つまり天の王座から祈ることになるのです。そして、キリストが自分をどのような存在にしてくださったかを、あなたは宣言することでしょう。
私たちはキリストと共に、天の所に座っているのです。そしてすべてのものはキリストの足の下にあるのですから、それはとりもなおさず、すべてのものが私たちの足の下にあるということでもあるのです。この霊的現実を忘れないように、互いに思い起こさせ合う必要があります。またそのことを共に信じる必要があります。
ベタニヤは、私たちが霊的に高く引き上げられる場なのです。
それだけではありません。キリストが天に昇ったわけですから、キリストは教会に対して、ご自分がいっさいのもののかしらであることを明らかにされたのです。ですから、かしらなるキリストに服従し、キリストを世の中で証しすることは、私たちの責務です。ベタニヤとは、人ではなく、イエス・キリストがかしらとしての地位を占めている場です。そこではキリストのみがかしらです。単に言葉上でではなく、実生活においてです。キリストは単なる賓客ではありません。一家の主(あるじ)です。ですからその家は、キリストに所有される必要があるのです。
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