ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

未信者と信者の夫婦関係

「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」Ⅰコリント7:14

この箇所をどう解釈したらよいのでしょうか。まず、この箇所が意味していないことからはっきりさせましょう。

●救いの約束ではない
まずこれは、信者の配偶者のゆえに未信者の配偶者が救われることを約束している聖句ではありません。それは16節を見れば明らかです。
 
「妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか」とあるからです。
 
聖書は決して、未信者の配偶者の救いを約束していません。

また片親が信者であれば、その夫婦の子どもは神の前に聖い存在(罪のない存在)だと言っているのでもありません。
 
たとえ子どもであっても、未信者であれば罪人であり、神の怒りの下にあります。片親が信者だという理由で、その子どもの罪が赦されたり神の怒りを免れたりするわけがありません。
 
本人の信仰によってキリストを信じない限り、人は決して義と認められません(ローマ3:22)。

では、「(未信者の配偶者が)聖められている」とか「(子どもが)聖い」とは、どういう意味なのでしょうか。

●「聖める」
冒頭の聖句で使われている「聖める」という動詞は、原語ではハギアゾーといいます。このハギアゾーが使われている箇所の中にマタイ23:17,19があります。

「黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。・・・その供え物と、供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」

この聖句の「聖ものにする」という部分がハギアゾーです。

上記の聖句で主イエスは、神殿や祭壇(神が聖めたもの)が、黄金や供え物(この世のもの)を聖めると述べています。
 
パウロはこれと同じ原則をⅠコリント7:14で述べていると考えられます。

信者の配偶者(神が聖めたもの/聖霊の宮)によって、未信者の配偶者やその子ども(救われていない=世に属する者)が聖いものにされるのです。

では、聖いものにされるとはどういう意味なのでしょう。

聖書から説明すると、たとえばペテロの影やパウロの手ぬぐいや前掛け、エリシャの骨です。

「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」使徒5:15~16

「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」使徒19:11~12

「人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて立ち去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。」Ⅱ列王記13:21

影、手ぬぐい、前掛け、骨などはこの世のものですが、信者によって聖められた結果、神が用いる道具や神が働く場に変えられました。

「聖める」の原義は、「分離する、異なったものにする」です。
 
配偶者や子どもが聖められると、そうでない配偶者や子どもと具体的にどういう違いが生じるかは説明できませんが、何らかの違いが神によってもたらされると考えられます。