その10 信仰に始まり信仰に進ませる?
新共同訳ローマ 1:17
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
新改訳聖書には、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と書かれていますが、これは翻訳者の努力による意訳です。
原典を直訳に近い形で日本語にしますと、次のようのです。
「なぜなら、福音のうちには、信仰から(出て)信仰の中へ(入ってゆく)神の義が啓示されているからです。」
*・・・( )内は私、ダビデによる補足。
日本語訳にあるような「進ませる」「実現する」など、「信仰」のフレーズを修飾する述語は、原典には一切ありません。
「信仰」という名詞と、「~から」「~の中へ」を意味する前置詞のみから構成されています。
●「信仰×2」フレーズの意味
そこで問題になるのが、この「信仰から信仰の中へ」というフレーズの意味です。
このフレーズの解釈については、学者たちによって色々な試みがなされてきました。
冒頭に挙げた新共同訳の「初めから終わりまで信仰を通して」という解釈は、近年、最も妥当だと考えられている解釈です。
ただ、新共同訳の「実現される」という部分がわかりにくいように思います。
ある注解書では、このように解釈されています。
「福音の中には、救いをもたらす神の義が掲示されています。その神の義とは、初めから終わりまで信仰によって経験するものです。」
「義人は信仰によって生きる」
パウロはこの箇所をガラテヤ3章でも引用していて、そこでも「信仰による」義認を述べています(ガラ3:11)。
またハバクク2:4は、ヘブル10:38でも引用されています。
こちらの執筆者はパウロではありませんが、38節前後の文脈を見ますと、やはり信仰を持ち続けることを励ます内容となっています(10:35「確信」、36「忍耐」、39「恐れないで信じる」)。
どうやらパウロは、神の義とは、徹頭徹尾「信仰を通して」享受するものだと言いたいようです。
確かにユダヤ人は、律法の行いによって義を得ようとしたのでつまずきました(ローマ9:31~32)。
上記の解釈は聖書全体の教えとも一致しているので、正しいのではないかと思います。