ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

その11 神の怒り

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正(*)に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」ローマ1:18

*・・・「不正」と訳されている言葉は、「不義」とまったく同じ言葉です。

17節でパウロは、救いに至らしめる神の義が啓示されていることを述べています。

それとは対照的に、18節では罪の責めを示す神の怒りが啓示されていると述べています。

17節と18節をつないでいる接続詞は、「なぜなら」や「というのは」を意味するガール/garという言葉です。

普通、「というのは」という言葉は、前の節の内容を更に掘り下げて理由を説明するために使います。

しかしここでは、内容がまったく別のテーマに変わっているのに、「というのは」という意味の接続詞が使われています。

これをどう理解したらいいのでしょうか。

英語の聖書と新改訳はガールを無視せずにきちんと訳出してますが、口語訳と新共同訳は完全に無視して、訳していません。

恐らく、ガールを訳してしまうと論理がつながらないからでしょう。

ではパウロは、言葉遣いを間違えたのでしょうか。

●18節以降の内容
こうなると、前後の文脈で考えるしかありません。

18節以降は、人の罪がどれほど悲惨であるかが述べられています。

どれくらい悲惨というと、人を堕落に委ねてしまう(引き渡す)ほど悲惨なのです(1:24)。

罪の説明は、3章まで続きます。

3章まで行くと、人は罪のゆえに、神と完全に隔絶されてしまっていることが述べられています。

人は神が存在することは知っていますが(1:21)、神を求めることも、理解することも、従うこともできません(3:11~12)。

人の知性も、意志も、感情も、神に関してはまったく役に立ちません。

まさに人は、救いようがない状況にいるのです。

学者たちは、この状況を「全的堕落」と呼んでいます。

●推論的な解釈
この状況を理解した上で1章17~18節を振り返ってみると、パウロがなぜ「というのは」を使って説明したかがわかる気がします。

パウロの頭の中を想像して解釈することになりますが、こんな感じではないでしょうか。

「福音のうちには、信仰による神の義が啓示されています(1:17)。

というのは、神の怒りが天から啓示されるくらい人の不義がひどいからです(1:18)。」

逆に言うと、福音を通して神の義を啓示しなければならないくらい、人は神(の義)に関して鈍感になってしまっているということではないでしょうか。

かなしいですね。