異言や預言はすたれたのか?
「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。・・・完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」Ⅰコリント13:8~10
日本の福音派では、上記の箇所を根拠にして、異言や預言が現代においてはすたれていると教えています。
「完全なもの」を聖書と解釈しているので、旧新約聖書が完成したことによって、異言や預言は不要になり、すたれたと教えています。
しかしその解釈は、完全に間違っています。
いくつかの理由を挙げて、それが間違いであることを説明します。
●黙示録11:3
「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
2人の預言者の登場は、終末の艱難期です。
つまり預言の働きは、艱難時代でも行われるのです。
ですから新約聖書の完成によって、異言や預言がすたれるという考えは間違いです。
●使徒2:17~20/ヨエル28~31
「神は言われる。
終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。
それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
上記のヨエルの預言によると、「終わりの日」というのは、2000年前の聖霊降臨から始まりました。
ではこのヨエルの預言は、1世紀のうちに成就が完了したでしょうか。
ヨエルは、そうは述べていません。
こんにちに至るまで、19節に書かれている「血と火と立ち上る煙」による「しるし」は成就していません。
また、20節に書かれているような、太陽がやみとなったり月が血に変わる「不思議なわざ」も起きていません。
つまりヨエルの預言は、2000年前に成就し始めましたが、今も成就しつつあり、20節の「主の輝かしい日」の到来(=再臨)によって成就が完了するのです。
それまでは聖霊が注がれ続けており、ゆえに預言の働きも続くのです。
●「完全なもの」
「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。」黙示録22:3~4
私たちは、地上にいる間、キリストというお方を「ぼんやりと」見ています。
しかし天に帰ったとき、直接「神の御顔を仰ぎ見る」ことになります。
これはⅠコリント13:12に書かれている、「その時には、顔と顔を合わせて見ることになります」のことであると思われます。
そしてキリストがどのようなお方であるかを、「完全に知る」ことになるのです(Ⅰコリ13:12)。
正直なところ、聖書が完成したからといって、クリスチャンのみなさんは聖書に書かれている真理を「完全に知る」ようになったでしょうか。
もし完全に知っているなら、この記事でこのようなことを論じること自体あり得ません。
ナンセンスです。
「完全なもの」とは、聖書のことではありません。
この言葉は、新約聖書の中で643回使われていますが、そのうちの617回は「来る」と訳されています(欽定訳の場合)。
完成した聖書が、あたかもどこからともなく「現れた」、あるいは「来た」ことになるのです。
しかし聖書というものは、歴史を通して多くの教会指導者たちの研究と議論と証によって淘汰されることで完成に至りました。
印刷され、一冊の本になって、突然「現れた」のでもなければ、どこからともなく「来た」のでもありません。
段階を経て、書簡ごとに少しずつ、聖典として認められたのです。
また、もし「完全なもの」が聖書だと解釈するなら、世界の諸国、諸地域の中で、聖書が翻訳されていない地域に関しては、今でも異言や預言がすたれておらず、用いられているという解釈になります。
聖書が完成している国々や地域においてのみ、異言や預言がすたれているということになるのです。
それも、おかしな話でしょう。
「完全なもの」とは、全世界に同時に「現れる」、あるいは同時的に「来る」ものでなければなりません。
全世界に同時に「来る」のは、やはり再臨のキリストでしょう。
●まとめ
こういうわけで、異言も預言もこんにちも存在しています。
これは実に、いまわしい現実です。
聖書を正しく信じ、聖霊の賜物を通して与えられる恵みを受け、こんにちでもしるしや不思議を行われる神をぜひ体験してください!
そのことを摂に願います。