異言の使い方
「もし教会全体が一ヶ所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」 Ⅰコリント14:23
異言の適切な用い方について書いて欲しいとの、ご要望がありました。
以下のような内容でいいのかどうかわかりませんが、一応書いてみました。
ですから、文脈を追っていくとわかると思いますが、この言葉の実質的な意味は、欄外にある別訳のとおり、「霊の賜物を持っていない人」という意味です。
聖書時代にも、信者でありながら、聖霊の賜物を持っていない人々がいたということです。
丁度、こんにちの福音派の方々のようなクリスチャンだったのではないでしょうか。
その人たちは賜物を持っていないので、もし集会で「みなが異言で話す」なら、異言で話している人たちのことを理解できずに気違いだと思ってしまうということです。
こんにちでも福音派の方々は、憶測や偏見によって、異言の賜物に関して色々なことをおっしゃいますが、それと同じような現象が1世紀にもあったということです。
そこでパウロは、「もし(異言を)解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい」と指導しています(28節)。
多くの聖霊派の教会で、この言葉が守られていないように思います。
●判断のポイント
パウロの指導のポイントは、集会の中に、異言に対してつまずきを感じる人がいるかいないかです。
必ずしも、集会において異言で語ること自体が悪いとは論じていません。
実際パウロは、「(私は)教会では、異言で一万語話すよりは」と述べ(19節)、集会において自分が異言でたくさん話す可能性があることを示唆しています。
もし集会の中に、未信者も含めて、賜物のことがわからずにつまずいてしまいそうな人がいるなら、そういう状況では異言は使わないほうがいいと述べているのです。
しかし使徒2:4のように、地球に存在する他国語の異言で、それを聞いた人々が理解できる場合は、未信者がいてもそれを使ってよいわけです。
また、(異言の)解き明かしがなされるならば、集会で異言を語っても良いわけです。
●まとめ
異言の解き明しができない場合、もし集会の中に異言でつまずく可能性のある人がいるなら、あるいは、そういう人が不意にやって来る可能性があるなら、異言を使わないことです。
異言の解き明しができない場合、もし集会の中に異言でつまずく可能性のある人がいるなら、あるいは、そういう人が不意にやって来る可能性があるなら、異言を使わないことです。
集会でなくても、この原則は同じです。
あなたが集会以外の場で異言を語るとしても、それを解き明かすことができないなら、語るべきではありません。
また、異言を聞いた人がつまずく可能性があるなら、語るべきではありません。