御霊に満たされる方法
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」エペソ5:18~21
コメントで、「霊の歌」に関するご質問をいただきました。
「霊の歌」の意味を探るために、まずは上記の聖書箇所の意味を理解したいと思います。
上記の箇所は、日本語訳ではいくつもの文に区切られていますが、原典においては一つの文で書かれています。
英語の聖書でも文法的に可能なので、一つの文で書かれています。
パウロが一つの文で書いているのには重要な意味があります。
「御霊に満たされなさい」以降の部分で、満たされるための方法を説明しているからです。
「御霊に満たされなさい」という命令句は、次の5箇所に掛かっています。
1)語る 2)歌う 3)賛美する(ギ:音楽を作る) 4)感謝を捧げる 5)従う
これら5つの動詞は、原典においては分詞(英語の動詞+ing形に相当する)で表現されています。
それらの分詞によってパウロは、御霊に満たされるための方法を説明しています。
●語る
「互いに」の部分の直訳は、「自分たち自身に」です。
「語る」内容は以下のとおりです。
①「詩」:詩篇 ②「賛美」:聖なる歌 ③「霊の歌」:霊的な歌
「霊の歌」というフレーズは、「霊的な」という形容詞と、「歌」という名詞の複数形からなっています。
「霊的な」は、エペソ1:3の(天にある)「霊的祝福」や同6:12の「悪霊」(ギ:悪の霊的存在)で使われており、必ずしも「御霊の」という意味ではありません。
なので、「霊の歌」を異言による賛美と断定できる根拠は上記の聖句にはありません。
むしろコロサイ3:16を参照すると、「霊の歌」を異言による賛美と解釈するのは難しいと思います。
コロサイ3:16については、後述します。
というわけで、
●歌う/賛美する
この2つの分詞は、英語のand、日本語の「~と」に相当する接続詞でつながれ、並列になっています。
2、3)「心から主に向かって歌い、心から主に向かってメロディーを奏で、御霊に満たされなさい」と述べられています。
●感謝を捧げる
「すべてのことについて」の直訳は、「すべてのゆえに」です。
●従う
「キリストを恐れ尊んで」は、「キリストの畏敬の中で」というのが直訳です。
5)「キリストへの畏れの中で互いに従い、御霊に満たされなさい」と書かれています。
●まとめ
これらをまとめると、パウロは次のように述べていることになります。
これらをまとめると、パウロは次のように述べていることになります。
「詩篇と聖なる歌と霊的な歌を互いに語ることによって、
また心から主に向かって歌い、心から主に向かってメロディーを作ることによって、
またいつもすべての事のゆえに父なる神に感謝を捧げることによって、
そしてキリストへの畏れの中で互いに従うことによって、
御霊に満たされなさい。」
●キリストのことばを住まわせる方法
御霊に満たされる方法については、上記までです。
このあとは「霊の歌」の解釈をするために、更にコロサイ3:16を学びます。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」コロサイ3:16
この箇所も、エペソ5章と同じような文法構造になっています。
パウロは上記の箇所で、キリストのことばをクリスチャンの心に住まわせる3つの方法について語っています。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」という命令句が、1)教える 2)戒める 3)歌う の3箇所に掛かっています。
1~3の動詞は、やはり分詞(動詞+ing)になっています。
「感謝」は、原典では「恵み」と書いてあるので、上記の箇所は次のようになります。
「知恵を尽くして互いを教えることによって、
また知恵を尽くして互いを戒めることによって、
そして詩篇と聖なる歌と霊の歌を、恵みにあふれて心から神に歌うことによって、
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」
●「霊の歌」の解釈
上記の部分で、キリストのことばを心に住まわせる方法を学びました。
その内容を参考にして、「霊の歌」の意味について考えたいと思います。
カリスマ・ペンテコステ派の中では、「霊の歌」を異言による賛美と考える場合が多いと思います。
私が以前所属していた単立カリスマ教会のグループでは、異言による賛美を「霊歌」(れいか)と呼んでいました。
こうなるとかなり紛らわしく、「霊の歌」=異言による賛美と考えてしまいがちです。
しかし通常、異言による賛美は意味のわかる言葉ではないので、異言でどんなに賛美してもキリストのことばを住まわせることにはまったく役立ちません。
キリストのことばを住まわせるには知性を使いますが、異言で賛美するのには知性はまったく使いません。
ですから異言による賛美は、キリストのことばをクリスチャンの心に住まわせる方法の一部になり得ません。
だとすると、「霊の歌」は異言とは関係なく、通常の言語による「霊的な歌」であるという結論になります。