ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

十戒とクリスチャン

ある方から、クリスチャンでも十戒は守るべきではないのかとの質問(意見)をいただきました。

以前にも、クリスチャンは律法(十戒を含む)を守る必要はないという記事を書きましたが、今回は特に十戒に焦点を当て、それを守る必要があるかどうかについて述べようと思います。

前置きしますが、この記事で律法や十戒を「守る必要がない」というとき、それは罪を犯そうが何をしようが構わないという意味ではありません。

クリスチャンの生活が、無法状態でも良いと言っているのではありません。

クリスチャンに対して、聖書また神はそれを守るように語っていないという意味です。

神は、それほどの自由をクリスチャンにお与えになったということです。

この点は、お間違えありませんように。

●エレミヤの預言

「見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約のようではない。」エレミヤ31:31~32

上記の箇所の、「エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約」とは何でしょうか。

それは、出エジプト記34:27~28にはっきり書かれています。

「主はモーセに仰せられた。『これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、
 
あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。』
 
モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。
 
そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。」

このように、「エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約」とは、十戒のことです。

注目すべきことは、神が「新しい契約」は十戒の「ようではない」と言っていることです(32節)。

私たちがイエスを通して受け取った新しい契約は、十戒とは異なっているのです。

●Ⅱコリント3章
では新しい契約と十戒は、どのように異なっているのでしょうか。

それについては、Ⅱコリント3章でパウロが説明しています。

まず新しい契約は、十戒のように「石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」と述べています(3:3)。

またクリスチャンは、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」だと述べています(3:6)。

「文字」は十戒を示していますから、クリスチャンは十戒に従う者ではなく、御霊に従う者だとパウロは述べているのです。

更に注目すべきことは、十戒は「消え去るべきもの」と呼ばれていることです(3:11)。

このように十戒は、永続しない一時的なものなのです。

有効期間があるのです。

その有効期間とは、新しい契約が結ばれるまでです。

つまり、イエスの十字架と復活までです。

●ガラテヤ書
十戒の有効期限については、ガラテヤ3章にも次のように書かれています。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。・・・しかし私たちはもはや養育係の下にはいません。」(24~25節)

さて、ガラテヤ4:24でパウロは、「この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており奴隷となる子を産みます」と述べているとおり、パウロが「律法」というとき、十戒も含まれています。

ですから私たちクリスチャンは、もはや十戒の下にいないのです。

十戒と律法には、一時的な役割が与えれていました。

それは神の民をキリストに導くことです。

キリストが現れた今、養育係の役割は終わりました。

クリスチャンが十戒や律法に逆戻りするなら、それは「その奴隷になろうとする」ことになります(4:9)。

古いものの奴隷になってはいけません。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。・・・またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(5:1)。
 
このように聖書は、クリスチャンは十戒も守る必要がないことを明確に教えています。

つづく