ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

その16 パフォーマンス・クリスチャニティー

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」ローマ2:6

上記の箇所にあるように、聖書は、神が行いによって人を裁くと教えています。

しかしこの聖句は、行いが良ければ、あるいは行いの分量が十分ならば救われるという意味ではありません。

聖書は、行いによる救いを100%否定しています。

ほんの一例ですが、以下のような言葉があります。

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」テトス3:5

冒頭の聖句の意味は、信者に関して言うなら、救われて新しい人となった実としての行い(エペソ2:10)に対して、神が天で報いを与えてくださるということです(Ⅰコリント3:14)。
 
救いとは無関係です。

●パフォーマンス・クリスチャニティー
アメリカのキリスト教界には、パフォーマンス・クリスチャニティーという言葉があります(以降、PCと表記します)。

これは日本語にすると、「行いに基づいたキリスト教」といった意味の言葉で、

御心と推察される行いを一生懸命やることによって、神にもっと愛してもらおうとすることを言います。

必然的にPCは、律法主義をもたらします。

あるいはPCは、すでに律法主義の一種類と考えても良いと思います。

恵みによる歩みとは、真逆の原則です。

●恵みによる歩み
聖書は、クリスチャンの歩みは恵みによる歩みだと語っています。

前述したテトス3:5は救いについての恵みを述べていますが、神の恵みは救われた後の歩みにも注がれています。

エペソ2:10にはこうあります。

「神は、私たちが良い行いに歩むように、その行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

私たちの救いが恵みによったように(エペソ2:8)、救われた後の歩みも恵みによって「あらかじめ備え」られているのです。

神が「あらかじめ備えた」のであって、信者の肉の努力によって生み出すのではありません。

例えば私は、1円にもならないのに多くの時間を費やしてこのブログを書きます。

客観的に見て、私の教えの行為は尋常ではなく、かなり情熱的だと思います。

周囲のクリスチャンたちからも、そう言われています。

しかし私は、神の愛を獲得しようとしてやっているのでありません。

神が私を十分すぎるほど愛してくださり、あふれるほどの恵みをすでに私の人生に表してくださったので、
 
それを分け与えるためにやっているのです。

神の愛や恵みが先行していて、行いは追随に過ぎません。

「ねばならない」という気持ちでやっているのはなく、抑えられないからやっています。

こういう行いこそ、神が「あらかじめ備えてくださった」行いだと思います。
 
神が備えてくださった行いには、喜びも伴います。
 
その人に神が与えた、賜物が輝きます。

●PCの特徴と弊害
しかしクリスチャンたちの中には、神が備えた行いではなく、ご本人の肉の努力による行いを一生懸命やっている方々がおられます。

「もっと祈らなければならない」

「もっと伝道しなければならない」

「もっと周囲の人々を愛さなければならない」

「もっと立派な人格を持った人間にならなければならない」

そしてそれをしている動機の中には、「そうすることによって神からもっと愛されたい」
 
「自分の価値を高めたい」という願いがあるのではないでしょうか。

ひどい場合は、教会の中で目立ちたいから、人から認められたいから、一生懸命何かをやっているクリスチャンすらいます。

また中には、行いに熱心であることによって、自分たちがクリスチャンの中のエリートだと勘違いしている方々もいます。

そういう方々は、一方で他のクリスチャンを見下しているはずです。

●結び
そのような肉の努力を、神は評価しません。

冒頭の御言葉は、肉によるパフォーマンスに対して、神が報いを与えることを保証するものではありません。

逆に、Ⅰコリント3:12~15で述べられている焼けてしまう建物とは、肉の努力による働きのことです。

ですからパフォーマンス・クリスチャニティーに陥ることがないよう注意しましょう。

PCは、行いが十分にできないと平安を持てない歩みです。

PCは神に愛されて満足するのではなく、自分の行いによって自分を満足させる歩みです。

自己実現といっても過言ではありません。

一人でも多くのクリスチャンが恵みによって歩めるよう、お祈りいたします。