救いに条件はあるのか?
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」エペソ1:4
ある方が、上記の箇所について次のように説明しました。
「神は確かに救われる人を前もって選びましたが、それはその人たちが、将来、キリストを信じるようになることを予知していたからです。将来、救われるとわかっている人たちを神は選んだのです。」
この考え方をconditional election(条件付の選び)といいます。
この考え方について別の方から質問が来ましたので、記事として書きたいと思います。
この考えは表面的には問題がないように思えますが、実は大きな問題があります。
●条件付きの選び
この考えの問題点を説明する前に、どの部分が「条件」なのかを説明します。
少し考えればわかることですが、私やあなたを神が選んだのは、私たちに神を信じる心があるからで、神を信じる心を持っていることが救いの条件だということです。
そういう心を持っていて、将来、神を求めるようになったり、信じるようになるとわかっている人であれば、その人をまず選んでおいて、のちになって救いを与えるということです。
選びと救いの理由が、人間の側にあるわけです。
時が来て、その人が救われた場合、救いの功績の一部は人間にあることになります。
その人が、信じる心を用いてキリストを信じたからです。
この考えに基づきますと、私たちの救いに関して神はある程度、栄光を受けるかもしれませんが、人の方に救われた理由があるので、すべての栄光が神に帰されることはなく、部分的になります。
●無条件の選び
もう一方の考え方はunconditional election(無条件の選び)と呼ばれています。
こちらは、「神はまったくの恵みと神の主権によって私たちを選び、時至って、私たちを福音と聖霊によって説得して救いに至らしめる」という考え方です。
私たちが選ばれたことには理由がなく、救われたことにも理由がありません。
ただ神の一方的な選びによって、救われます。
従って、私たちが救われたすべての功績は神にあり、すべての栄光が神に帰されます。
神は計画したとおりを実行することができる、力ある神、ということになります。
●聖書的な問題
これまでの説明は論理的に両者の違いを比較しましたが、条件付きの選びには、聖書の記述と矛盾するという問題点があります。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24
上記の「価なしに」という部分は、原語では「理由なしに」という意味です。
ですからローマ3:24は、神は私たちを「理由なしに」救うと述べているのです。
しかし条件付きの選びによれば、救いの理由は私たちの側にあるわけですから、この聖句と真っ向からぶつかります。
この箇所だけではありません。
ローマ3:11は、人間は全員罪人で、「悟り(理解)のある人いない。神を求める人はいない」と述べています。
ローマ8:7は、「肉の思いは、神に対して反抗する」と述べていますから、一部の未信者だけに神を信じる心があるということはありえません。
人の中に信じる能力があるのではなく、神の働き掛けが人の心を動かして、イエスを信じさせるのです。
恵みとは、何でしょうか。
それは、私たちには不相応な、一方的な神の好意です。
しかしもし私たちの中に救われる理由が存在するのであれば、救いは恵み(不相応な好意)ではなく、相応な好意になってしまいます。
つまり条件付きの選びの概念は、クリスチャンに対する神の恵みを薄めてしまうのです。
私たちはそういう考えに染まることがないよう、注意しなければなりません。
神が無条件に私たちを選んでくださったからこそ、救いは恵みなのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰よって(ギ:信仰を通して)救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ2:8
アーメン。
すべての栄光が、神に帰されますように!