ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

胎児や赤ん坊が死んだら、どこへ行くのか?

「律法なしに罪を犯した者はすべて律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」 ローマ2:12

注:この記事の結論は、あくまで私の推論であって、聖書がはっきりと教えていることではありません。

パウロはローマ2:12で、律法を知らない異邦人でも、罪を犯した者はすべて滅びると述べています。

また律法を知っているユダヤ人が罪を犯した場合は、律法に応じて全員裁きを受けると言っています。

異邦人でもユダヤ人でも、罪を犯した者は全員滅びるということです。

ここで疑問がわいてきます。
 
では、罪を犯しことのない者はどうなるのでしょうか。

罪を犯したことのない者。

「そんな人間はいない」 という声が聞こえてきそうです。

私が考えているのは、堕胎や流産で死んでしまった胎児や、生まれたばかりで罪を犯す間もなく死んでしまった赤ちゃんたちのことです。

もちろん、彼らが罪人であることに変わりはありません。

ダビデはこう言っています。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」 詩篇51:5

ですからすべての人間は、母親がみごもった瞬間から罪人なのです。

しかしこれは、胎児が罪の性質を持った存在であるという意味であって、胎児の段階で罪を犯したという意味ではありません。

ですから問題は、罪を犯したことない者が死んだ場合、神は彼らを滅ぼすかどうかということです。

●神の怒りとの関係
ローマ1:18でパウロは、神が怒っているのは、人間が罪によって真理をはばんでいるからだと言っています。

しかし胎児や赤ん坊には、「真理」を知ることができる能力も機会もありません。

ですから、真理をはばむこともできません。

ということは、神は胎児や赤ん坊を怒っていない可能性があります。

●神の主権との関係
詩篇139:16に、こうあります。

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

これは胎児の段階で、神が主権をもって人間の将来を決定しているということです。

胎児や赤ん坊として死ぬことは偶然ではなく、神の決定に従って起こったことだということです。

神が意図的かつ計画的に、彼らに極めて短命な人生を与えたのです。

●選びとの関係
聖書は、救われる人々を神が永遠の昔にすでに選んでいると教えています。

「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって」 Ⅱテモテ1:9

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」 黙示録13:8

「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」 黙示録21:27

「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」 エペソ1:4

もし永遠の昔に救われるかどうかが決まっているなら、胎児や赤ん坊として死んだ場合でも救われるのでしょうか。

これはあくまで私の考えですが、神の主権と合わせて考えると、胎児や赤ん坊として死んでしまう人は全員、選ばれた人々、救いに定められた人々だと思います。
 
旨い話に聞こえますが、ぶどう園のたとえ話を思い出すなら、まんざら的外れでもないと思います。
 
マタイ20:1~16です。
 
長いので、ご自分の聖書でお読みください。
 
聖書をお持ちでない方はこちらへ→「聖書の杜」 http://bible.monochro.com/index/25300/#ln25300 

ダビデの最初の子ども
ダビデの最初の子どもに関する記事は、罪を犯さずに死んだ人がどこへ行くかという問いに対する大きなヒントを与えてくれます。

ダビデがバテシェバと姦淫の罪を犯したために、神は最初に産まれた子を病で打ちました(Ⅱサムエル記12:15)。

その結果、赤ん坊は死んでしまいます(同12:19)。

ダビデは家来たちとの問答の中で、こう言いました。

私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」(同12:23)

これはどういう意味でしょうか。

「行くだろう」の「だろう」は推定の意味ではなく、未来のことについて述べているので、「~だろう」という日本語訳になっているだけです。
 
原典には、推定の表現はありません。

ですからダビデは、自分が将来死んだら、子どものところへ行くとはっきり言っているのです。

さてヘブル11:32、33によれば、ダビデは信仰を持っていました。

つまり彼は救われていたわけですから、死後は天国に行ったのです。

ということは、彼の最初の子どもも天国に行ったと考えられます。

●私の結論
これまでの内容を総合して、私なりの結論(推論ですが)を出したいと思います。

胎児や赤ん坊として死ぬ人々は、イエスを信じる機会も能力も与えられませんが、罪を犯す機会もなく死にます。

神は彼らを怒っておらず、ゆえに罰しない可能性があります。
 
また彼らが短命で死ぬことは、神の意図したことであり、神の計画によります。
 
その神の計画とは、彼らがみな選ばれた人々であり、彼らを全員天国に入れ、神の子どもとすることではないかと私は考えます。
 
このようなことをするのは、神が「気前のいい」神であり、救いは人間の意志や努力によらず、神の一方的な恵みによることを後の世界で示すためではないかと推察します(ヨハネ1:13、16、17)。

ダビデは神がそういう神であることを知っていたので、「私はあの子のところへ行く」と言ったのだと思います。