ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

アブラハムのふところ

「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」 ルカ16:22

一昔前に、アメリカの神学校で学んでこられた方々が執筆した信仰書で、旧約時代の聖徒が死んだ場合は、その人の霊魂は「アブラハムのふところ」と呼ばれる霊的な場所に行き、そこで一時的に過ごし、後に天国に行くと教えられました。

聖書にそのように読み取れる記事があるのですから、この説明には説得力があって当然です。

しかし実のところイエスは、ルカ16:19~31の話の中で、「アブラハムのふところ」という霊的な場所があるとは言っていません。

信仰書の執筆者と私たちの読み込みに過ぎません。

エスが使った「アブラハムのふところ」という言葉は、アブラハムとの親しい位置関係を示すユダヤ的な表現です。
 
最後の晩餐のときに、弟子のヨハネがイエスの胸にもたれかかっていたのと同じこと(親しい位置関係)を言っています(ヨハネ13:23)。

●「ふところ」
「ふところ」と訳されている言葉は、コルポスといいます。

コルポスには、①(人の)胸 ②聖書時代のユダヤ人が着ていた上着の、帯の上のたるんでいる部分(ルカ6:38) ③(海の)入り江 の3つの意味があります。

例えばヨハネ1:18に、「父のふところにおられるひとり子の神」とありますが、これはイエスが父なる神と共におり、親しい関係にあることを表しています。

ヨハネ自身も、自分がイエスから愛されていたことを表すために、ヨハネ13:23でイエスの胸にもたれかかって晩餐を食していたことを述べています。

つまりイエスは、ラザロが天に行ったことを明瞭にするため、アブラハムと親しい位置関係にあることを示すユダヤ的な表現である「アブラハムのふところ」を使ったのです。
 
ラザロは地上にいたときにはさげすまれ、苦しんだけれども、今はアブラハムの胸にもたれかかって安らいでいるという慰めの意味もあったでしょう。

アブラハムのふところ」という、霊的な場所があるわけではないのです。

●十字架以前も天国
そういうわけで、イエスはルカ16章で、ラザロが死んで天国に行ったと教えています。

アブラハムも死後、天国に行ったのです。

旧約においても、信仰による救いという原則は同じでした。

キリストはまだ現れていませんでしたが、神は、旧約の聖徒たちに神を信じる信仰を与え、その信仰を通して彼らを救い、死後は天国に入れたのです。

旧約聖徒の天国行きは、ヘブル11:16が証明しています。

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

この「都」とは、天のエルサレム以外にどこがあるでしょうか(黙示録21:2)。

●一時的な場所
通常、私たちが「天国」と呼んでいる場所は、一時的な天国です。
 
黙示録21章に書かれているように、千年王国の後、「新しい天と新しい地」が用意されます(1節)。

いわゆる「天国」は、天から地上に下りていって地上と融合します(2節、10節、24節)。

その融合した世界が、「新しい天と新しい地」です。

この新天新地こそ、クリスチャンが永遠に神と過ごす場所です。

それまでの天国は、千年王国が終わるまでの一時待機の天国です。

ラザロやアブラハムも、この一時的な天国にいます。

私たちも、一旦はこの一時的な天国に行くことになります。

●ハデスと「火の池」
ハデスとは、ギリシャ語のhadesをカタカナにした訳語で、低地の神の名前、死者の場所、墓などを意味します。

ハデスのヘブル語版が、シェオールです。

ハデスも一時待機の場所です。

もちろんこちらは、救いを受けずに死んだ人たちの霊魂が行く場所です。

千年王国が終わると、ハデスが死者を出します(黙示録20:13)。

その後、死者たちは神に裁かれ、「火の池」に投げ込まれます(同20:13~15)。

この「火の池」が、いわゆる「地獄」です。

ここは永遠の場所です。

不信者たちが最後に行き着くところです。