ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ビル・ジョンソンのまやかし


 「天が地に侵入するとき」の4章を読んでみました。4章のタイトルは「信仰~見えない世界への錨(いかり)」です。原書P38の第二と第三段落でビル・ジョンソンは次のように持論を展開しています。
 
To encourage us in our capacity to see, Jesus gave specific instruction, "Seek first the kingdom of God...."Paul taught us, "Set your mind on things above, not on things on the earth."He also stated, "For the things which are seen are temporary, but the things which are not seen are eternal."The Bible instructs us to turn our attention toward the invisible. This theme is repeated enough in Scripture to make those of us bound by the logic of this Western culture quite nervous.
Herein lies the secret to the supernatural realm that we want restored to the Church. Jesus told us that He only did what He saw His Father do. Such an insight is vital for those who want more.The power of His actions, for instance, the mud in the eye of the blind, is rooted in His ability to see.
 
●日本語訳
私たちの見る能力を奮い立たせるため、イエスは「神の国・・・をまず第一に求めなさい」という具体的な命令を出しました(マタイ633)。パウロは「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるもの思いなさい」と教えています(コロサイ32)。また「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」とも述べました(第二コリント418)。聖書は私たちの意識を見えないものに向けるよう命じているのです。このテーマは、論理的な思索に縛られている私たち欧米人には、煙たくなるほど聖書の中で繰り返されています。

しかしこの中にこそ、教会において求められている超自然なわざの回復の秘訣が隠されているのです。イエスは、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なわないと言われました。現状に満足していない信者には、そのような知恵が必要不可欠です。例えば盲人の目に泥を塗るという行為に見られるイエスの力は、彼の見る能力に起因しているのです。
 
●検証
 上記の論理展開は、持論を正当化するために、聖書の言葉を部分的に抜き出して利用し、読者の意識を操作しようとするものです。そのことを検証していきます。
 
 マタイ6章の文脈は、地上でのいのちを保つために必要な衣食の必要は、神のみこころを第一に求めれば神が満たしてくださるので、信頼して神に任せなさい、という内容です。ビル・ジョンソンが云わんとしている、教会におけるしるしと不思議のわざとは何の関係もありません。この箇所における「神の国」とは、信者の心の中で神が第一となり、日常生活における意識を神に支配していただくことであって、しるしや不思議を意味しているわけではありません。
 
 コロサイ3章は、1節の冒頭が「こういうわけで」という言葉で始まっています。つまり2章の後半の内容を受けているのです。2章の後半の内容は、御使い礼拝(18節)や禁欲主義(23節)などに信者を引き込もうとするニセ教師の教えを警戒せよというものです。それは人間の教えだという結論で終わっているので、「こういうわけで」で3章が始まっています。2節は、クリスチャンのいのちは、天におられるキリストの中で守られているのだから、天のことに思いを向けなさいと励ましているのです。クリスチャンがしるしや不思議を行うこととは何の関係もない文脈です。
 
 第二コリント4章は、17節で「今の時の軽い患難」について述べられており、「見えるもの」とは地上での患難から来る諸問題のことで、「見えないもの」とは14節で述べられている永遠のいのちや、神に従うことによって与えられる重い永遠の栄光(17節)のことです。
 
 また、ビル・ジョンソンは「盲人の目に泥を塗るという行為に見られるイエスの力は、彼の見る能力に起因している」と述べ、盲人の癒やしと、ヨハネ519の父なる神がなさることを見るというイエスの言葉を結びつけています。まるで私たちが神の思いの中を覗き込めば、イエスと同様の奇蹟を行えるかのような口ぶりです。
 
 しかしイエスが盲人を癒やしたのは、ルカ418でイエスイザヤ書を読んで言われた「盲人には目の開かれることを告げるために」を成就するためというのが第一の理由です。
 
 またイエスが父なる神のなすことを見るというとき、「わたしと父はひとつです」と言っているとおり、三位一体の関係において父なる神の計画を代行する立場にある存在として「わたしは父のなすことを見る」と言っておられるのです。ですから、私たち人間が神のみこころを捉えるのとはまったく次元が異なります。それを私たちクリスチャンとの引き合いに出すこと自体、正気の沙汰とは思えません。ビル・ジョンソンの三位一体に関する認識は、相当貧弱なようです。
 
●まとめ
 このようにビル・ジョンソンは、信者がしるしと不思議を行うことをあたかも聖書が重視しているかのような論調を作り上げるために、文脈的な意味を無視して聖句を繋ぎ合わせ、神の言葉を利用しているにすぎずません。
 
 繰り返しますが、私は終焉説主義者ではありません。こんにちでも神が奇蹟を行うことを信じており、クリスチャンがしるしと不思議を行うこと自体を否定しているのではありません。それ自体は素晴らしい神の恵みだと思っています。
 
 しかし偽りの教えに惑わされて、神ご自身を求める(あなたの神である主を愛せよ)という最も重要なことから目を反らされてはなりません。ビル・ジョンソンの教えに乗るとどうなるかと言えば、しるしと不思議を行う自分をイメージするようになり、結局、神でも神の国でもなく、自分に意識を向けることになるのです。それでは、まさにサタンの思うつぼではありませんか!