ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ビル・ジョンソンが一線を越えた理由 その2

 前回は、私が自分の妻を通して超自然的な神を体験してきたことを述べ、このような記事を書く理由が、しるしや不思議を否定するためではないことを繰り返し伝えました。
 
 今回は「天が地に侵入するとき」の8章を読みました。タイトルは「霊的な体験をするための教え」(Teaching Into an Encounter)です。この中ので、ビル・ジョンソンは次ように述べています。
 
 
The Bible is the absolute Word of God. It reveals God; the obvious, the unexplainable, the mysterious, and sometimes offensive. It all reveals the greatness of our God. Yet it does not contain Him. God is bigger than His book.(「天が地に侵入するとき」原文P89より抜粋)
 
日本語訳
聖書は、神の絶対的な言葉です。神を啓示しています。明確でありながら、言葉に尽くしがたく、神秘的で、時として感情を害するような神を。聖書は、神の偉大さを余すことなく啓示しています。しかしながら聖書は、神を説明し切れているわけではありません。神は聖書よりも大きいからです。(強調はダビデ
 
 
●神は聖書よりも大きい?
 
 「神は聖書よりも大きい」というフレーズは、アメリカのカリスマ・ペンテコステ派ではしばしば使われるものです。通常の意味は、神は聖書に書かれていないことでも行う、だから霊的な現象は必ずしも聖書で説明できない、というニュアンスで使われます。
 
 ビル・ジョンソンが云わんとしていることも、まさにそれです。実際、彼は次のように続けています。
 
Revival is mixed with many such dilemmasGod doing what we've never seen Him do before, all to confirm that He is whom He said in His Word. We have the inward conflict of following the One who changes not, yet promises to do a new thing in us. This becomes even more confusing when we try to fit that new thing into the mold made by our past successful experiences.
 
日本語訳
リバイバルには、次のようなジレンマが多く含まれています。―神は、私たちが一度も見たこともない御わざを行いますが、詰まる所、神が御言葉どおりのお方であることがはっきりします。私たちには、神に従うことに関して内なる葛藤があります。変わることのないお方が、私たちの中では新しいことをすると約束しているからです。この葛藤は、その「新しいこと」を、過去の成功の体験によって出来上がった鋳型の中に押し込もうとするとき、より一層混乱したものとなるのです。
 

●検証
 
 確かに聖書の神には不可思議で、私たちの理解を超えた部分があります。むしろ人間に理解し尽くすことができる神は、本当の神とは言えません。
 
 神は、あらゆる点で無限大の存在です。ですから神に関する真理にも無限の深淵さがあり、聖書には書ききれないでしょう。そういう意味で神は聖書よりも大きいと言えます。
 
 しかしイエスは次のように言っています。
 
ヨハネ16:12~13
12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 
 上記のイエスの言葉は、「あなたがた」、つまり当時のイエスの弟子たちを通して、新約聖書という形で成就しました。
 
 彼らが真理の御霊の霊感によって福音書や書簡を書き記し、それが今、私たちの手元に聖書という形であるのです。
 
●すべての真理
 
 上記の箇所に「すべての真理」とありますが、これが何を意味しているかについては、きちんと解釈する必要があります。
 
 ビル・ジョンソンような考えで解釈すれば、聖霊は聖書にも書かれていない真理を、今私たちに教えてくれている、だから未知の霊的現象でも神のわざなのだ、ということになるでしょう。
 
 しかしこの「すべての真理」の意味は、果たしてそういう意味でしょうか。イエスの言葉には続きがあります。
 
ヨハネ16:14~15
14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
 
 
 13節では「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し」と言い、14,15節では御霊がわたしのものを受けて」と言っています。
 
 つまり聖霊は、エスから受けたものだけを知らせるのです。私たちが知る必要のないものも含めて何でもかんでも知らせるわけではありません。実際、モーセは、聖霊の霊感を受けて次のように言いました。
 
申命記29:29
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。
 
 このように、「隠されている」真理は神のものであり、人間は知ることができない、あるいは知る必要がない、のです。
 
 しかし「現されたこと」(啓示されたこと)は、私たち(人間)のものだと言っています。また聖句の後半で、その啓示される理由は、私たちが神に従うためだと言っています。
 
 このように、神に従うために必要な真理は、すでに現されています。キリスト教に新しい啓示や新しい教えなどはありません。

あたかも新しい教えであるかのように見えるものは、聖書の解釈を変更することによって生まれているのです。
 
つづく