ビル・ジョンソンが追及したもの ~現代のシモンにならないために~
「天が地に侵入するとき」の8章で、ビル・ジョンソンは自身の全存在を掛けて追い求めていたものが何であるかを明かしています。
しかしもしペテロがこんにちでも生きていたら、ビル・ジョンソンに対して、「あなたの心は神の前に正しくない」と叱責するかもしれません。
この記事では、その理由を説明します。
In 1987 I attended one of John Wimber's conferences on signs and wonders in Anaheim, California. I left discouraged. Everything that was taught, including many of the illustrations, I had taught. The reason for my discouragement was the fact that they had fruit for what they believed. All I had was good doctrine.
1987年、私はカリフォルニア州アナハイムで行われた、ジョン・ウインバーのしるしと不思議のカンファランスに参加しました。しかし私は落胆して会場を出ました。そこで教えられたあらゆること―実例による説明も含めて―は、私も教えていたことだったからです。私が落胆した理由は、彼らは自分たちが信じていることの実も結んでいましたが、私には教えしかなかったからです。(中略)
Things changed immediately We prayed for people and saw miracles. It was glorious, but it didn't take long to discover that there were many also that weren't healed. Discouragement set in, and the pursuit with risks decreased.
状況は急展開し、私たちが人々のために祈ると、奇蹟が起こるようになりました。それは栄光に満ちた光景でした。しかし間もなく気づかされたのは、癒やされない人も大勢いることでした。落胆しました。そしてリスクを負ってでも(奇蹟を)追及しようという思いが減退しました。
On my first trip to Toronto in March of 1995, I promised God if He would touch me again, I would never back off. I would never again change the subject. My promise meant that I would make the outpouring of the Holy Spirit, with the full manifestations of His gifts—the sole purpose for my existence. And I would never stray from that call—no matter what! He touched me, and I have pursued without fail. (原本P84~P85より抜粋)
1995年3月にトロントを訪れる旅の中で、私は神に約束しました。「もしあなたが再び私に触れてくださるなら、私は二度と後戻りはしません。私は二度と目標を変えません」と。私の約束の意味が何かというと、聖霊の注ぎ掛けを起こすことです。聖霊の賜物が完全な形で現されることです。私の全存在は、そのことのためにあるのですから。私は二度と召しから逸れたりしません。どんなことがあってもです!神は私に触れてくださいました。それ以来私は、失敗を犯すことなく追い求めているのです。
●魔術師シモン
ビル・ジョンソンの証を読むと、なんだかカッコイイですよね。
しかし以下の箇所を読むと、彼のようなクリスチャンは、ペテロに叱責される可能性が高いことがわかります。
使徒8:12~21
13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
●説明
このようにシモンは、イエスの御名を信じ、洗礼も受けていました。
ところが彼の心は、しるしと不思議を求める思いで一杯でした。
それで彼は、「いつもピリポについていた」のです。
「ついていた」と訳されているギリシャ語はプロスカテレオーという動詞で、
「誰かを支持する」「誰かの支持者になる」という意味です(注)。
魔術師シモンは、しるしと不思議を行う伝道者に憧れ、信奉していたということです。
この精神は、リバイバリストを招いて行われる○○聖会とか○○カンファランスに行く人たちと似てませんか?
こういう動機で聖会に参加するため、東奔西走している人はいませんか。
残念なことにシモンは、「あなたの心が神の前に正しくない」と叱責されました。
●まとめ
このように聖書は、しるしや不思議のわざのゆえに特定の働き人を信奉したり、聖霊の注ぎ掛けを行うことを目的に、霊的権威を欲することは正しくないと教えています。
ですからビル・ジョンソンが、ペテロに叱責される可能性は大いにあるのです。
しかしもっと残念なことは、このシモンと同じようなクリスチャンが、日本のカリスマ・ペンテコステ派の中に大勢いそうだということです。
私は超自然的な神のわざ自体を否定するつもりはさらさらありません。
聖書には「御霊を消してはなりません」とありますし(第一テサロニケ5:19)、自分自身、癒やしや不思議なわざを行った経験があるからです。
しかし、しるしと不思議ばかり語ること、そういうことばかりを求めることは、本来あるべき霊的状態からズレているのではないでしょうか。
もしそのような状態にある兄弟姉妹がいるなら、霊の目が覚まされますようにと祈ります。