ベテル教会の闇 パート2
訳注・・・英語の「主」「神」「イエス」に当たる言葉は、通常、大文字で始まりLord、God、Jesusと書きます。しかしこの証の筆者は、あえて小文字を使いlord、god、jesusと書いています。ベテル教会で体験した神は本物ではない、という意思の表れです。しかし日本語ではそのような表現ができないため、カギ括弧でくくり、「主」「神」「イエス」としました。
隠れた危険 ~極端なペンテコステ主義から解放された妻~
私は何ヶ月間もベテル教会の教えと、ジーザス・カルチャーの音楽に浸りました。
「ソーキング」と呼ばれるものをやり始めました。ソーキングとは、カジュアルなワーシップソングを聞きながら、自分の霊と思いを「主」に対して開く行為です。私は聖書を読むことをやめました。なぜかというと、神から新しい啓示を受けたかったからです。(リック・ジョイナーの本でも読みましたが)私は数多くの説教の中で、新しい啓示が聖書に取って代ったと聞いていました。聖書だけを読む人は「言葉の人」と呼ばれていました。言葉の人は、「神」の新しい霊の働きに対抗することになる、というのです。新しい霊の働きのほうが、聖書に書かれていることよりも重視されていました。それで私は聖書通読をやめ、ソーキングを受け入れました。
私は神と出会いたいと思いました。何か劇的なこと、わくわくするようなことが起こることを期待しました。ソーキングのあいだ私は静かに座り、「臨在」と呼ばれているものに対して心と思いを開きました。自分のうちにある、暖かくてぼんやりとしたものに意識を集中するのです。そうしているうちに、その感覚(暖かくてぼんやりしたもの)がだんだん大きくなっていきました。恍惚状態に近いこの感覚は、ほしいときにはいつでも持てるようになりました。そのうち私は「ソーキングの祈り」をするようになり、いつもの感覚が短時間で自分を覆うようになりました。これをやっていると、「イエス」の愛の中にいるような感覚でした。「イエス」はもはや権威者ではなく、王座に座った「主」でもなく、単に私が愛するお方でした。私を心地よくしてくださるお方、自分は他の人よりも優れていると思わせてくれるお方、になったのです。この感覚はとても気持ちがいいため、もっと求めるようになりました。
私のすべてが変わり始めました。実のところ、自分が思っていたよりももっと変わりつつありました。悪い意味でです。
ベテル教会の教えに入れ込めば入れ込むほど、「自分たちは正しい」という情熱に燃えるようになりました。逆に、聖書に従っている人たちは間違っている、と思うようになりました。この思いは、主人との対立のもとになりました。夫は神の御言葉を熱心に学ぶ人で、物静かで謙遜な人柄です。ですから私が夢中になっているものを、夫は受け入れようとしませんでした。私はそういう夫の姿に腹を立て、この人はもう駄目だと思いました。私としては、私と同じように霊的なことにもっと心を開き、情熱的になってほしかったのです。そのころの私の目標は、お金を貯めてベテル教会のカンファランスに行くことでした。カンファランスに出れば、特別な油注ぎが受けられると思ったのです。そんな私は、自分の実生活がだんだん嫌になっていきました。余りにも平凡でつまらなく、目に見える形では神に対して情熱的ではなかったからです。私は油注ぎを求めました。金粉や宝石が天から降ってくるのを見られたらいいなあと思っていました(注)。私は預言者のような歩みがしたかったのです。
注・・・ベテル教会では、神の臨在のしるしとして、集会中に会場の上のほうから金色の粉が舞い降りてきたり、床の上に金色の粒や宝石が現れるという現象が起きています。
お気づきかと思いますが、すでに私の意識は「自分」に向いていました。
私は新しい油注ぎを求めました。もっと祝福されたいと思いました。人生のすべてを投げ出してでも、こういう教会の一員になりたいと思ったのです。夫が家族を連れて、(ベテル教会がある)レディングに引っ越してくれたらいいのに、とすら思いました。そうすれば、神の新しい働きに加わることがきるからです。私が求めていたのは、ただ自分の中にある願いがかなえられて、いい思いをすることだけでした。愛されていると感じさせてくれるあの感覚。自分は「イエス」に熱心なのだ思わせてくれるあの感覚。私は自分にいい思いをさせてくれるあの感覚を慕い求め、もっとほしくなりました。誰にも私の邪魔はさせない。私は正しいことをしてるのよ!私は騒がしくて攻撃的な女になりました。極度に短気になり、利己的な野心に囚われていました。
私は自分を見失っていました。もはや家庭のためには時間を使わなくなり、私が必要とするのは、あれもこれも自分にとって重要なものだけでした。私に素晴らしい変化が起きているのに、それをわかってくれない夫が私には理解できませんでした。私はジーザス・カルチャーを聞きながら、ソーキングすることを望みました。時がたつにつれ、私は夫に対してどんどん荒っぽい態度をとるようになりました。彼に対していらだつようになり、夫の信仰生活を完全にさげすむようになりました。彼も油注ぎを受けて、偉大な神の人になればいいのに、と思いました。夫よりも霊的に優れた状態にあった私は、彼の聖書研究は時間の無駄だと思っていました。
ところがある日、私は自分の聖書を手に取り、それを読んでみました。すると自分が体験していることが、聖書とずいぶん違っていることに気づきました。私は聖書をとおして、静かな細い声が語り掛けてくるのがわかりました。この感覚は、いつしかとてもかけ離れたものとなっていました。それにはわくわくするような感じはなく、ソーキングで体験していた騒がしいものとも違っていました。私は自分の頭の中で、なぜこの静かで柔らかな声は、自分の体験とこんなにも違うのだろうかと心にひっかりました。
このあと、私を完全に目覚めさせる出来事が起こります。
私は教会の集会で、この証のパート1に登場した女性とおしゃべりし始めました。私たちは海外で起きている驚くような油注ぎや霊的現象について、いろいろ話し始めました。金色の粉が降ってきたとか、それが服についたとか、宝石のことなどです。自分たちの教会でもそういうことが起きてほしいと思いました。そういう現象が起きているカンファランスに早く参加して、そういうものを受け取りたいねと話ていました。
そのときです。彼女は、驚くような油注ぎを持つ「神」の人について話し始めました。その人は、「神」の栄光を受けたのだそうです。名前はジョシュア・ミルズでした。彼のカンファランスでは、この証で語ってきたあらゆる現象が起きていました。彼女は言いました。その人は「神」の栄光をとても強く受けているので、その油注ぎのしるしとして、体から油がしたたり落ちるというのです。彼女は話しながら興奮していました。ところが私は、この話を聞くや否や、何かおかしいと思いました。実のことろ、その現象には大きな問題がありました。
この話を聞いたとたん、私はとても不快になりました。私はカトリックの家庭に生まれ育ちました。新生したクリスチャンになる前のことです。でも信じたあと、神は私の目をはっきりと開いてくださり、そのカトリック教会がサタン的な影響を受けていることをわからせてくださいました。その教会は「マリア」の訪れを何度も体験しており、そこにも「油注ぎ」を受けた人たちがいました。体から油がしたたり落ちたり、体に聖痕が現れたりしていたのです(注)。ですから友人がジョシュア・ミルズの話をして、「神」の栄光のしるしとして彼の体から油がしたたり落ちるということを聞いたとき、私はピンときました!
注・・・聖痕とは、カトリックの聖人の体に十字架の傷などが現れる現象。
帰宅するや否や、ジョシュア・ミルズを検索し始め、油がしたたり落ちる現象について調べました。イライジャ・リストといって、特別な「預言者たち」を紹介しているサイトにジョシュア・ミルズも出ていました。イライジャ・リストには、他にもビル・ジョンソン、キム・クレメンツ、ロブ・デ・ルカ、ランディー・クラーク、シンディー・ジェイコブス、リック・ジョイナー、トッド・ベントリー、パトリシア・キング、ロドニー・ハワードブラウン、ジョン・アーノットとキャロル夫人、などが紹介されています。ジョシュア・ミルズは、カンファランスやセミナー(参加費は法外な金額です)を開催していました。ミルズはセミナーを開き、参加者たちが特別な油注ぎを受けて、それを自教会に持ち帰れるようにしていました。案の定、友人が言っていたように、ジョシュア・ミルズの皮膚からは油が染み出てくることがわかりました。「神」の栄光を受けたしるしだそうです。悪辣なことに、彼はしたたり落ちる油を布きれにしみ込ませて、それを販売していました。布きれを購入すれば、それを通して特別な油注ぎが受けられるというのです。
突如として私は、自分はこんなことに夢中になっていたのかと、我に返ったのでした。
つづく
引用サイト:クロスワイズ ~真理の中を歩む~