クリス・ヴァロトンが会話しているイエスは本物か? その2
1.アプローチの違い
参考文献:The IVP Bible Background Commentary
ルカ19:2~9
3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
①ザアカイの意味
「ザカイ族、七百六十名」(ネヘミヤ7:14)
「ザカイ」は、「純粋な」とか「純真な」という意味です。これがギリシャ語ではザカイオスになります。
神はザアカイに、「純粋な」人格を与えていたのではないでしょうか。しかし彼の罪や生い立ちのゆえに、不純な人間になっていたのです。しかしイエスとの出会いによって自分の蓄財を人々に分け与える純真な者(本来のザアカイ)へと回復されました。
②取税人のかしら
この言葉は「経営者のかしら」とも訳すことができます。実際、取税人のかしらは、手下となる取税人たちを雇って税を回収させていました。現代的な言い方をすれば、企業の社長、あるいは官庁の課長のような立場と言えます。
ですから取税人のかしらはだまし取らなくても十分稼ぐことができましたが、ザアカイの場合はだまし取っていたのです(8節)。このことから二つのことがわかります。
*ザアカイの人格はかなり歪んでいた
*イエスとの出会いによって、その歪みが大きく改善した
③身長
古代の地中海周辺の基準で「背が低い」という場合、150センチ未満だったということです。
男性で150センチ未満というのは、本当に小柄だといえます。やはり彼には、劣等感があったのではないでしょうか。この身長なら、木の上に上る必要があったことも納得できます(4節)。
④超自然的アプローチ
当時のユダヤ社会では、面識のない人の名前を呼ぶという行為は、預言者としての能力を表すと考えられていました。イエスはザアカイの名を呼ぶことにより、預言者として超自然的なアプローチでザアカイに触れました。これによりザアカイは、イエスが、遥か以前から自分ことを知っていたことを認識しました。まるでカーテンが開くように、ザアカイの心はイエスに対して一気に開かれたはずです。
⑤孤独
当時の敬虔なユダヤ人たちは、取税人の家に入ることを嫌いました。7節の、人々の言葉はそれを裏付けます。しばしば言われているとおり、ザアカイは孤独であったに違いありません。
しかしイエスは、そんなザアカイを無条件で受け入れました。ザアカイが頼んだのではなく、イエスのほうから「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。このような交わりを持つことは、相手を受け入れていることの現れです。
⑥救い
しかしユダヤ人の指導者たちは失われた羊を顧みなかったので(エゼキエル34:3~4)、神は自分自身で羊を探し出して世話をすると宣言しました(同34:11)。
イエスによるザアカイの捜索と救い、人格へのいたわりは、その宣言の成就とも言えます。
エゼキエル34:11
見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
⑦人格の変貌
パリサイ法では、羊や雄牛が盗まれたり殺されたとき、それを目撃した証人が何人かいた場合にのみ、弁償することが義務付けられていました。
しかしザアカイの場合、イエスの救いの恵みにより、パリサイ法の条件を超えた償いを自主的に申し出ています。人格の変貌は、一方的な神の愛と恵みによって起こるものです。
●まとめ
ヴァロトンのイエスは、ザアカイの箇所と比較すると、人に働きかける手法が違っているように思います。
そうするかわりに初対面の人に対して超自然的な方法で、ご自分が誰であるかを示すと同時に、相手のことをどれほど深く知っているかを直観的にわからせます。そして言葉ではなく行動によって、自分が相手を受け容れていることを示します。
この超自然的な知識や説得力そして愛により、ザアカイは「純粋、純真」という本来の自分(ザカイ)を取り戻しました。