ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

クリス・ヴァロトン 「クリスチャンは小さなキリストだ!」 その1


 
 前回の記事でもヴァロトンは新生時の過剰な聖化を主張していましたが、その後も次のように述べ、新生時の過剰な聖化を強調します。この記事では徹底して、ヴァロトンの誤りを検証します。
 
「王家の者として生きる」P66より抜粋
Many people have misunderstood the seventh chapter of Romans. In this chapter Paul talks about his struggle with trying to do good and still doing the wrong thing. If we read these verses in light of the preceding and proceeding Scriptures, we find that it is impossible for Paul to have been speaking about his redeemed life. The entire Book of Romans is a letter of contrast between the life lived under the Law and the life that is in Christ.
 
多くの人はローマ人への手紙7章を誤解しています。パウロは7章で、善を行おうとしても悪を行ってしまうと嘆いています。もしローマ7章を前述した箇所(第一コリント2916)や今述べた箇所(ガラテヤ220)の光に照らして読むなら、パウロが救われたのちの霊的生活についてあのように述べることはあり得ません。ローマ書全体が律法の下での歩みとキリストにある歩みの違いを述べているからです。
 
 
●ローマ7章について
 
 前回の記事でローマ717を取り上げ、以下のように説明ました。

ローマ717
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく私のうちに住みついている罪なのです
 
 上記の箇所の「私のうちに住みついている罪」にも、「住みつく」を意味するオイケオーの現在形が使われており、ローマ書を書いている現時点においてパウロの内側に罪が住んでいることを意味しています(720も同じ)。             
                                (引用終わり)                                  
 
 
 しかし学者によっては、この箇所を次のように説明します。
 
「確かにパウロは現在形で述べているが、これは過去の自分の状態を現在形で説明しているだけであって、現在のことを述べているわけではない」と。
 
 私はこの説には反対ですが、ローマ7章を持ち出さなくても、救われた信者に罪の性質が残っていることを説明することは可能ですので、この記事ではあえてそうしたいと思います。同時にその説明は、ローマ7章が新生後のパウロを述べていることを支持することもなります。
 
  
罪の性質が残っていることの説明 
 
ローマ810
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています
 
 
救われた信者
 「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」とあることから、この聖句はキリストあ内住している信者について述べていることがわかります。
 
 その信者の「からだは罪のゆえに死んでいる」とパウロは述べています。このフレーズ中の「罪」は単数形で書かれており、個々の罪のことではありません。文脈から「罪の性質」を意味していることは明らかです。
 
聖句の意味
 トーマス・シュライナーのローマ書注解は、810の意味を次のように解説しています。
 
「信者のうちに御霊が内住し、信者はもはや罪の奴隷ではない。しかし信者は、依然として罪のゆえに死ぬ。罪はもはや信者を支配していないが、それは罪が存在しなくなったことを意味していない。信者の肉体は人格全体を含んでいるがゆえに、クリスチャンは御霊という新しいの時代の賜物を所有してはいるものの、依然として古い時代に属していることを示すものである。贖いの完成は(再臨時における信者の)復活の日になされる。そのとき罪と弱さはみな取り去れる。」(P414より翻訳抜粋)
 
信者の死と罪の性質
 上記の解説の中に、「信者は・・・罪のゆえに死ぬ」とあります。この原則はとても重要なので理解しておきましょう。
 
 ローマ512に「ひとりの人によって罪が世界に入り罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」とあるように、罪と死は一枚のコインの表と裏です。
 
 私たちが誤解しやすいことのひとつに、罪人の定義があります。ある方々は伝道するときに、人はいろいろな悪いことをするから罪人なのだ、言います。実はこれは間違いです。
 
 人間は個々の罪を犯すことによって罪人になるのではありません。罪人だから個々の罪を犯すのです。「ひとりの人」であるアダムの子孫であるがゆえに罪人なのです。ダビデ王が、母の胎に身ごもられたときに罪人だったと言っているとおりです(詩篇515参照)。
 
 どんなに聖められたクリスチャンでも、人生の終わりに死を経験します。それはその人のうちに罪の性質が残っているからです。以下の箇所がそれを教えています。
 
 
創世記21617
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」



ローマ623
罪から来る報酬はです


つづく