ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

クリス・ヴァロトン 浅はかな聖書解釈 その2

 
 その1では、聖書中の「聖徒」という表現は、信者の性質を表すのではなく、神の民として取り分けられていることを示すことを述べました。この記事では、新生後の信者の霊的状態について説明します。
 
 
●新生後も罪の性質は残る
 
 新生した信者はもはや罪人ではなく「聖い信者」であるというヴァロトンの主張が、聖書と食い違っていることは、以下のような箇所からもわかります。
 
第一テモテ115
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです
 
 「罪人のかしらです」の部分には、英語のamに相当するギリシャ語エイミが現在形で使われており、パウロは過去の自分ではなく、現在の自分のことを述べています。
 
ローマ717
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく私のうちに住みついている罪なのです
 
 上記の箇所の「私のうちに住みついている罪」にも、「住みつく」を意味するオイケオーの現在形が使われており、ローマ書を書いている現時点においてパウロの内側に罪が住んでいることを意味しています(720も同じ)。
 
 ここで使われている「」は単数形ですので、パウロが犯した個々の罪のことを述べているのではありません。十字架で個々の罪は赦され、新生によって「罪の支配」からは解放されました(ローマ614)。しかし罪の性質が残っており、それがパウロの中に住んでいることを示しています。
 
第一ヨハネ18
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません
 
 上記の「罪」も単数形が使われており、個々の罪ではなく罪の性質が信者の中にあることをヨハネは述べています。
 
 罪の性質が消え去るのは、体が栄化されるときです。栄化については、このブログの「途中ですが、コメントに答えます」を参照してください。
 
 
●聖化を無視するヴァロトンの教え
 
 ヴァロトンは同じ5章で、次のようにも述べています。
 
The power of the cross not only dealt with the forgiveness of our sins but it also changed our very nature. Some people have isolated the effects of the born-again experience to the spirit. That's not accurate. Salvation changed our entire being! Peter says that we are "partakers of the divine nature" (2 Pet. 1:4). Think of it, your very nature is now divine! Paul said that we our "new creatures" in Christ (2 Cor. 5:17). He didn't say we are new spirits, He said "new creatures!" If we believe that we are still sinners,we dilute the power of the blood and then, like Jacob, spend our days trying to be good.(原文P65より抜粋)
 
十字架の力は私たちの(個々の)罪を処理しただけでなく、私たちの性質をも変えました。ある人たちは新生体験の効果は、(人間の)霊にとどまると教えています。それは正しくありません。救いは私たちの全存在を変えたのです!ペテロは、私たちは「神のご性質にあずかる者」だと言いました(第二ペテロ14。考えてみてください。あなたの性質は今や神的なのです!パウロは、私たちはキリストにある「新しく造られた者」だと言いました(第二コリント517)。パウロは、私たちが新しい霊だとは言わず、「新しく造られた者」だと言ったのです!もし今でも罪人だと信じるなら、私たちは血潮の力を差し引くことになり、(旧約の)ヤコブのように、善い人間になろうと努力しながら過ごすことになるのです。
 
 
●検証
 
 ヴァロトンは、まるで新生したクリスチャンから罪の性質が消え去り、神の性質と入れ替わったかのように教えていますが、これは聖書的でしょうか。
 
 
第二コリント318
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです
 
And we all, with unveiled faces reflecting the glory of the Lord, are being transformed into the same image from one degree of glory to another, which is from the Lord, who is the Spirit. 

 
そして私たちはみな、覆いが取り除かれた顔で主の栄光を反射させながら、ひとつの栄光の段階から次の栄光の段階へと姿に変えられつつあります。その栄光は、御霊なる主から来るものです。
 
 
 NETバイブルは、「栄光から栄光へと」の意味をわかりやすく表現しています。「ひとつの段階の栄光から次の段階の栄光へ」という表現は、クリスチャンが反射する主の栄光が段階的に強まっていくことを示しています。
 
 言い換えると、クリスチャンの聖化(主の似姿に変えられること)が段階的に進むことを教えています。聖書はヴァロトンが言うように、新生と同時に古い性質がまったくなくなり、代わりに神の性質になる、とは教えていません。段階的に主の似姿に変えられてゆくのです。罪の性質はその間も残っており、キリストの再臨のときに栄化が起こって救いが完成するというのが聖書の教えです。
 
 
神のご性質にあずかる者とは
 
 第二ペテロ14の「神のご性質にあずかる者」の「あずかる者」はコイノノスという言葉で、「パートナー」「分け前を受け取る者」という意味です。
 
 「パートナー」とは、ひとつのものを共有する人のことです。逆にいうと、新生したからといって、私たちは神の性質を完全に所有するわけではない、ということです。
 
 ペテロはコイノノスという言葉によって、神の性質を部分的に受け取る者になったことを説明しています。
 
 ヴァロトンはまるで、新生したら全人的(霊・魂・肉体)に新しくなるかのように述べていますが、ペテロはそういうことは言っていません。
 
 
新しく造られた者とは
 
第二コリント517
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました
 
 パウロは同じ第二コリント5章のはじめのほうで「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています」と言っており、罪の影響を受けた肉体の不完全さや不自由さを嘆いています(4節)
 
 また、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった、と言っています。もしこの言葉がたましいの領域(知性・感情・意志)を含んでいるとしたら、新生した瞬間、私たちはそれ以前の記憶を失うことになります。記憶だけではありません。その人のアイデンティティー(自己像、個性)も失うことになるのです。
 
 ヴァロトンにはそういう体験があるのかもしれませんが、私たちにはありません。ヴァロトンは、古いたましいが過ぎ去り、たましいのすべてが新しくなることが何を意味するかを考えずに論じているのです。このようないい加減な教えを受け入れてはなりません。
 
 
●罪の性質が残る意義

 へブル書の著者は12章で、「血を流すまで罪に抵抗する」(4節)ことの意義を説明しています。

 ヴァロトンは「もし今でも罪人だと信じるなら、私たちは血潮の力を差し引くことになり」と言っていますが、これはお門違いです。

へブル12:10~11
肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのですすべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 
 このように、父なる神は、私たちに「義の実を結ばせる」ため、霊の父としての愛のゆえに罪と戦わせます。

 ヴァロトンのように、「だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(12:8)


●まとめ
 
 ヴァロトンの教えは、信者が段階的にキリストの似姿に変えられることを否定するため、悔い改めや従順による聖化の必要性を否定してしまいます。
 
 一見、自分が聖い存在になったかのように思わされ、偽りの自信を持たされますが、そこに危険が潜んでいるのです。
 
 聖霊の正しい働きがなされて聖化が進むと、私たちは罪に敏感になります。それによって、自分がいかに主イエスの聖さから掛け離れているかに気づきます。これが正常な状態です(パウロの「罪人のかしら」という告白と同じ)。
 
 肉を喜ばせるニセの教えに、惑わされないよう注意しましょう