ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

クリス・ヴァロトン 「クリスチャンは小さなキリストだ!」 その2

 
 「王家の者として生きる」の中でヴァロトンは、クリスチャンの霊的地位を引き上げるべく、引き続き次のようのに述べます。
 
If we've been taught that after receiving Christ we are still sinners, we will struggle with trying to do the right thing because we have put our faith in our ability to fail instead of His work on the cross! We can spend the rest of our lives living under the curse of our old name "sinner," or like Israel, we can receive our new name that has the power to alter our very DNA. We are Saints, holy believers, and Christians, which means we are "little Christs"! (原書P6869
 
もし私たちがキリストを受け入れた後も罪人だと教えられるなら、正しい行いをしようとする私たちの努力はくじかれるでしょう。なぜならキリストの十字架の功績を信じる代わりに、失敗する能力を信頼することになるからです。私たちは、「罪人」という古い名前の呪いのもとに生涯を送ることもできます。しかしイスラエルのように新しい名前を受け取り、霊的DNAを変えることもできるのです。私たちは聖徒です。聖なる信者です。私たちはクリスチャンです。クリスチャンという言葉は「小さなキリスト」を意味しているのです!
 
 
●検証
 
 彼の主張は、肉的な意味でクリスチャンの顔をもたげさせる巧妙な物言いだと思います。しかし肝心なのは、この内容が聖書と一致するかどうかです。聖書と異なる内容でクリスチャンを元気づけるなら、励まされるのは信仰ではなく肉になるからです。肉が励まされると何が起きるでしょうか。私たちは主に寄り頼まなくなるのです。(実際、ビル・ジョンソンは、いちいち神にお伺いを立てずに、キリストの性質を受けているのだから自分で判断するように教えています。)
 
 
失敗する能力への信頼?
 
 ヴァロトンは、新生後も信者が罪人だとしたら「失敗する能力を信頼することになる」と言っていますが、本当にそうでしょうか。
 
 キリスト信仰はしばしば逆説的だと言われます。それは信者の肉が弱れば弱るほど、キリストのいのちと力があふれる、という形で神が働かれるからです。
 
キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう
                            (第二コリント129
 
 この御言葉にある「」という言葉はデュナミスというギリシャ語で、①体力②能力③力という意味があり、使徒18の「あなたがたは力を受けます」の「力」と同じ言葉です。
 
 ですからキリスト体力、キリストの能力、キリストの力で覆われたいなら、私たちの自我や肉が弱いほうが良いのです。いえ、弱くないとダメなのです。
 
 ヴァロトンの主張を信じるなら、私たちは自分をキリストのように見なすことになり、キリストの力に寄り頼む必要性を見失うのではないでしょうか。その場合、次のような誤りが生じます。
 
すべてのことが、神から発し、によって成り、神に至るからです。
 
 しかし正しいのは
 
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ローマ1136
 
 
「小さなキリスト 
 この説は「クリスチャン」を意味するギリシャ語クリスティアノスに「小さなキリスト」という意味がある、というものですが、実際のところ学問的な根拠はありません。以下のサイトを引用して説明します。
 
引用サイト:プリセプトオースティン/ギリシャ語ワードスタディー
 
The meaning of Christianos is not totally clear but seems to mean an adherent of Christ. Some think this is a diminutive form of Christos, meaning "little Christ." Irregardless Christianos connects a believer with his Lord. In a real sense a Christian means bearing the name of Christ. There are some parallel constructions in the ancient language. Followers of Herod were known as "Herodians." Likewise those loyal to Caesar were known as "Caesarians." This appears to be the model on which the name "Christian" was formed 
 
クリスティアノスの意味が完全に明確なわけではないが、キリストの信奉者という意味である。ある人たちは小型のクリストス、つまり「小さなキリスト」だと考えている。クリスティアノスが信者と主を結びつけているのは確かだが、実際のところクリスチャン(という言葉)は、キリストの名を帯びていることを意味する。古代の言語には一定の並列構造がある。ヘロデの従者たちは「ヘロディアン」と呼ばれていた。同じように、シーザーに忠実な者たちは「シーザリアン」と呼ばれていた。「クリスチャン」という呼び名もこの原則に基づいて形成されたようである。
 
The Anchor Bible Dictionary writes that "Most scholars agree that the formation of this term is Latin in origin. Christianus (pl. Christiani) is a second declension masculine Latin noun found in Tacitus, Suetonius, and Pliny the Younger. A common practice of the 1st century for identifying adherents was to attach the termination -ianus (pl. -iani) to the name of the leader or master (e.g., Pompeiani, Augustiani, Ceasariani). Early Hellenistic practice paralleled this by attaching -ianos (pl. -ianoi) to the name of a leader or master (e.g., HerodianoiMatt 22:16Mark 3:612:13; Joseph. Ant 14.15, 10). Hence, whether in Lat (Christianus) or in Gk (Christianos) the term is formed from Christ and indicates Christ’s adherents, those who belong to, or are devoted to, Christ. 
 
アンカー聖書辞典はこのように述べている。「ほとんどの学者たちは、この言葉の形成の起源がラテン語にあるという点で一致している。クリスティアヌスは、タキトゥスやスエトニウス、プリニウスらの文章に見られるラテン語男性名詞の第二語形変化である。1世紀のありふれた用法として、(誰かの)信奉者を示す場合、その指導者や主人の名前の語尾にイアヌス/ianusがつけられていた。初期の頃のギリシャ語の用法もこれに対応しており、指導者や主人の名前にイアノス/ianosがつけられた。こういうわけで、ラテン語のクリスティアヌスであれ、ギリシャ語のクリティアノスであれ、この言葉はキリストから形成されており、キリストの信奉者、つまりキリストに属する者またはキリストに傾倒している者を指している。」
 
In the earliest days of the church, “Christian” was a term of ridicule the pagans gave to the followers of Christ. Eventually, followers of Christ came to love and adopt this name. It is interesting to note the terms applied to believers prior to use of the term "Christian" -  "Jews," "disciples," "believers," "the Lord's disciples," those "who belonged to the Way.(
Acts1:15, 2:44, 6:1, 9:1, 2).
 
初代教会時代、「クリスチャン」という言葉は、異邦人がキリストの従者をあざけるために使われていた。そのうちキリストの従者たちはこの呼び名が気に入り、自ら使うようになった。「クリスチャン」という言葉が使われる前は、信者たちは「ユダヤ人」だとか「弟子たち」「信者ら」「主の弟子たち」「その道に属する者たち」などと呼ばれていた。これは興味深いことである(使徒11524461912参照)。
 
テスト
 クリスティアノスは聖書の中で3回使われています。「キリストの信奉者」がフィットするか、それとも「小さなキリスト」がフィットするか、各聖句に当てはめて試してみましょう。
 
使徒112526
バルナバサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリストの信奉者/小さなキリストと呼ばれるようになった。
 
使徒262729
アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。するとアグリッパパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリストの信奉者/小さなキリストにしようとしている。と言った。
 
第一ペテロ41516
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリストの信奉者/小さなキリストとして苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、こののゆえに神をあがめなさい。
 
 
●まとめ
 
 ローマ810パウロの言葉は、信者の内に罪の性質が宿っていることの動かぬ証拠です。このことはローマ7章が未信者時代のパウロではなく、新生後のパウロの言葉であることをも支持します。
 
 「小さなキリスト」についても、ほとんどの学者は「キリストの信奉者」という見解で一致しています。
 
 置き換え試験でアグリッパのセリフに「小さなキリスト」を当てはめてみたとき、思わず噴き出してしまったのは私だけでしょうか?
 
 ヴァロトンの聖書解釈は、持論を正当化するための曲解です。また学問的な確かさが極めて低い説をあたかも正しいかのように利用しています。
 
 このような偽りの主張に惑わされないように注意しましょう。
 
 クリスチャンは肉的に自我を励ますのではなく、弱い者としてキリストの力に覆われることを求めるのです。
 
 「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである