ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

パウロが云う「どんなことでも」とは? ピリピ4:13


 
教科書の著者マウンスのブログを読んだところ、
 
目から鱗の発見がありましたので、記事にしたいと思います。
 
 
パウロの言葉遊び
 
4:12~13 
12私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇対処する秘訣を心得ています。13私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。
 
 
 マウンスによると、上記の箇所では、パウロが言葉遊びをしているそうです。

There is also a bit of a word play going on. In the previous verse Paul said that “In any and every circumstance” (en panti… kai… en pasin), and the suggestion is that the “all things” goes at least back to v 12.

ちょっとした言葉遊びがなされている。パウロは前節で、「如何なる状況においても、またあらゆる状況において」(エン パンティ カイ エン パスィン)と言っている。このことは、「どんなこと」というフレーズが、少なくとも12節の内容を指していることを暗示している
 

 引用した新改訳の「あらゆる境遇部分がそれにあたりますが、

日本語ではわかりにくいので原文で説明します。
 

4:12
 οἶδα καὶ ταπεινοῦσθαι, οἶδα καὶ περισσεύειν· ἐν παντὶ καὶ ἐν πᾶσιν μεμύημαι, καὶ χορτάζεσθαι καὶ πεινᾶν καὶ περισσεύειν καὶ ὑστερεῖσθαι· 4:13 πάντα ἰσχύω ἐν τῷ ἐνδυναμοῦντι με.
 
 箇所あるブルーの部分はどれも「パス」という同じ単語が語形変化したものです。
 
 パスは「すべて」という意味の形容詞ですが、名詞的な用法になっているため
 
 日本語訳では「あらゆる境遇」「どんなこと」というふうに、

 言葉が補われています


12節の説明  

  エン  パンティ  カイ   エン   パスィン  メムエマイ
~の中で すべて(単) そして ~の中で すべて(複) 私は秘訣を学んだ
 

 パンティは単数形で、パスィンが複数形です。
 
 なので直訳すると
 
すべての事柄の中のすべてにおいて」(私は秘訣を学んだ)となります。
 

 このダブった形でパスが使われていることが、言葉遊びになっているとのことです。
 
 
 ちなみにこのフレーズは文頭に位置しているので、
 
 パウロが「すべての事柄の中のすべてにおいて」を強調していることがわかります

 13節のパンタも文頭に位置しているので、やはり強調されています
 

 
「どんなこと」の意味
 
 ブルーで強調した形容詞パンは、どれも中性で使われています。
 
 ギリシャ語の性質として、
 
 形容詞が中性で使われている場合前出の概念全体を修飾ます。
 
 マウンスは次のように説明しています

The clue is that the adjective is neuter, when Greek wants to refer back not to a specific word but to a group of ideas or to a general concept, the adjective (or pronoun) is put in the neuter. In other words, the Greek shows that the “all” is referring back to not any one specific word but opens the door to referring back to an idea or group of ideas.

鍵は、形容詞が中性であることだ。ギリシャ語では、(特定の言葉ではなく)概念の集合や一般的な概念について言及したい場合、形容詞(あるいは代名詞)が中性で表現される。言い換えると、ギリシャ語の性質により、「どんなこと」は特定の言葉ではなく、特定の概念、あるいは概念の集合について言及していることになる
 
 
 要は12節の言葉遊びと、上記の形容詞の性質のゆえに
 
「どんなこと」が指しているのは、
 
飽くこと」「飢えること」「富むこと」「乏しいこと」だというです
 
 パウロはこういった状況の中でも、主にあって対処できる、といっているわけです。
 
 
 日本語の聖書には、この結論を汲み取っているものはありませんが、
 
 マウンスのブログでは、TNIVNIVの元になった聖書)が引用されています。
 
12 I know what it is to be in need, and I know what it is to have plenty. I have learned the secret of being content in any and every situation, whether well fed or hungry, whether living in plenty or in want.13 I can do all this through him who gives me strength.
 
私は乏しいことの何たるかを知っており、豊かに持つことの何たるかを知っている。私は如何なる状況においても、またあらゆる状況において、満ち足りる秘訣を体得した。満腹していること、空腹でいること、豊かさの中で暮らすこと、欠乏の中で暮らすこと。私は、私に力を与えてくださるお方によってこのすべて可能なのである。
 

●まとめ

 13節の「私を強くしてくださる方によって」の部分には、

 前置詞エン(~の中で)が使われています。
 
 ですから文字通りには、「私を強くしてくださる方の中にって」です。

 パウロは、スーパーマンのように何でもかんでもできると言っているわけではありません。

 乏しい状況でも、豊かな状況でも、主が力を与えてくださるので対処できると言いっているのです。

 これは、ヨハネ15:5のイエスの教えと同じことを言っていることになります。
 

が葡萄の木であり、あなたがたは枝である。人が私のうちに留まっていて、私も彼のうちに留まっているなら、この人は多くの実を結ぶ。あなたがたは私なしには何もできないからである(岩波翻訳委員会訳)  


 
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