未信者の内面は神に敵対している【地の果てまで協賛記事】
それゆえ、父なる神による「引き寄せ」がない限り、誰一人としてキリストと出会うことができません(ヨハネ6:44)。
この記事では、未信者の霊的状況を別の箇所から見ていきます。
●人は神を避けるようになった
創世記の3章には、罪を犯した後のアダムたちの様子が描かれています。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。(3:8)
二人は罪を犯し、恥を自覚するようになったため、神を避けるようになりました。
神に背を向け、神を求めなくなったのです。
この霊的状態ついて、ヨハネは次ように言っています。
「光」とはイエス・キリストのことです。
そして、生まれながらの人間は、罪のゆえにキリストを憎みます。
罪が露わにされることを恐れて、キリストのほうに来ようとしません。
これが未信者の知性や自由意志の実情です。
これは、自由意志によって神を選択できるという概念と矛盾すると思います。
やはりイエスさまが言われたように、父なる神の「引き寄せ」がない限り、
だれも主のところに来ることはできないと、私は思います。
●肉の思いは神に敵対する
ローマ8:6~9
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
この箇所からも、救われていない人の霊的な状態が理解できます。
6節に「肉の思いは死である」とあります。
つまり救われていない人の思いの特徴は霊的な「死」であり、
神との隔絶だということです。
「敵意、敵対心、仲たがい」という意味です。
未信者は御霊を持っていないため、
その思いは100%「肉の思い」だということになります。
そして「肉の思い」は、神への「敵意、敵対心、仲たがい」です。
わかり易くするとこうなります。
未信者の思い = 100%神への「敵意、悪意、憎しみ」
私としては、未信者の場合、御霊がゼロ%ですから、
彼らの思いは100%神への「敵意、敵対心、仲たがい」だと思います。
つまり部分的な堕落、という考えは違うと思います。
ちなみにエペソ2:1~3にも、上記の箇所とほぼ同じことが書かれています。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
救われる前の私たちは、悪霊にまで従っていました。
「不従順の子」であり、「肉と心の望むまま」に生きる「御怒りを受けるべき子ら」
救われる前の人間は、こういう状態にあります。
「不従順の子」が自分の意志で神を求めるでしょうか。
無理があるように思えてなりません。
人間側の主観が強すぎるのではないかと思うのですが・・・。
4~5節には、そのような私たちが救いに至ったのプロセスが書かれています。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
この箇所によれば、
救いの発端は、神が私たちをキリストとともに生かしてくださったことです。
私たちがまず何かをしたから救われた、とは書かれていません。
生物学的には生きていても、霊的には「罪過の中に死んでいた」ので
どうすることもできなかったのです。
救いに関しては、お手上げだったのです。
●まとめ
私としては、ここまで霊的にひどい状態にある人間が、
自由意志によって神を選択できるとは思えませんし、
その考えが、聖書的だとも思えません。
ヨハネ1:13(岩波翻訳委員会訳)
彼らは血〔統〕からでなく、肉〔なる人〕の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのである。
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