【ミニ投稿】イエスが十字架でしたこと 1ペテロ2:24
この箇所をワードスタディーした上で文法的な構造を探ると、
日本語訳には表されていない深い意味が露わになります。
●自分を捧げ物と見なしていた
1ペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
「負われました」と訳されている言葉を調べました。
アナフェロー(アナ=上に+フェロー=運ぶ)字義通りの意味は、
低い位置から高い位置に動かすために、運び上げたり、担ぎ上げること。
この言葉は、捧げ物の生贄を祭壇の上に捧げる際に使う専門用語である。
アナフェローは、次の箇所でも使われています。
へブル7:27
ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
へブル9:28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
へブル13:15
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
このようにアナフェローには、「生贄として捧げる」という意味があります。
イエスさまはご自分を生贄と見なしつつ、十字架についていたことがわかります。
●文法の構造
τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν αὐτὸς ἀνήνεγκεν
冠詞 罪(複数形)を 私たちの 自分自身で 運び上げました
ἐν τῷ σώματι αὐτοῦ ἐπὶ τὸ ξύλον,
~中に 冠詞 体/与格 彼の ~の上に 冠詞 木/対格
文法的な構造を見ると、
イエスさまが私たちの罪を、最終的にどこまで運び上げたかがわかります。
少しややこしい説明になりますが、こらえてください。
新改訳の訳文では、
私たちの罪を、ご自分の体に負って動作が終わっていることになります。
しかし原文では、「体の中」は与格(動作の間接的な目的地)で書かれ、
「木の上」が対格(動作の直的な目的地)で書かれているので、
木の上まで罪を担ぎ上げたことがわかります。
それゆえ直訳すると、こんな感じになります。
私訳
彼は自分自身で、私たちの罪を彼の体の中に(入れた上で)、木の上に担ぎ上げました。
岩波翻訳委員会訳は、少し無理をして次のような訳文にしています。
彼は自ら私たちの罪を、自分の体のうちに、木の上に運び上げた。
●まとめ
私がしばしば参考にしている聖書研究サイトには、次のような説明があります。
偉大なる大祭司イエスは、身代わりの生贄として私たちの罪を負い、私たちの代わりに死んだ。
私たちの罪の贖いをもたらすためである。
旧約の祭司たちは、私たちの罪を負うことができなかったのだ。
ウースト博士は、ペテロの説明を旧約聖書の生贄のシステムになぞらえ、次のように表現している。
~~~~
イエスは、ご自分の体の中にある私たちの罪を、自ら十字架の上に運び上げ、
祭壇の上に捧げるかのように、ご自分を捧げた。
イエスさまが最後まで「神の小羊」に徹していたことを思わされ、
私は深く感銘を受けました。
↓最後までお付き合いくださりがとうございます↓