【ミニ投稿】神に対する責任とは? 1ヨハネ2:6
ヨハネは同じような意味の言葉を2回繰り返し、あることを強調しています。
●2つの「そのように」
1ヨハネ2:6
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
新改訳では訳出されていませんが、
6節の後半で、ヨハネは「そのように」という意味の言葉を2種類使っています。
以下に原文をコピペしました。
καθὼς ἐκεῖνος περιεπάτησεν, καὶ αὐτὸς οὕτως περιπατεῖν.
カソス その方 歩んだ 彼自身 ホウトス 歩む
それゆえ岩波翻訳委員会訳は、このように訳されています。
彼のうちに留まっていると言う者は、その者自身もあの方が歩まれたように[そのように]歩むべきである。
言うまでもなくヨハネは、キリストのように歩むことを強調しているわけです。
●神に対する責任
辞典はオフェイローについて、
ヨハネはキリストのように歩むことを強調した上で、
それが私たち信者の責任だと言っているわけです。
●キリストのように歩む
キリストのように生きることが私たちの責任だということですが、
問題は「キリストのように歩む」ことが、具体的にどういうことかということです。
そこで次の箇所を引用してみました。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら」とあります。
これの答えをイエスさまが語っている箇所があります。
ヨハネ6:56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
では、イエスの肉を食べ血を飲むこととは、どういうことなのでしょうか?
少し手前の35節で説明されています。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35節)
これは、イエス自身が神の言葉であることを示す表現です。
文脈から見ても、「わたし」という表現は御言葉と同義語として語られています。
ですから聖書を読み、聖書の言葉がその人のうちにとどまっていること、
それがキリストのように歩むための第一歩だということです。
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