ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

【ミニ投稿】神に対する責任とは? 1ヨハネ2:6


 
 ヨハネは同じような意味の言葉を2回繰り返し、あることを強調しています。
 
 
2つの「そのように」
 
1ヨハネ2:6 
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません
 
 
 新改訳では訳出されていませんが、
 
 6節の後半で、ヨハネは「そのように」という意味の言葉を2種類使っています。 
 
 ひとつはカソスという言葉で、「まさにそのように」という意味です。
 
 もうひとつはホウトスという言葉で、そのようにという意味です。
 
 以下に原文をコピペしました。
 
 
καθὼς ἐκεῖνος περιεπάτησεν, καὶ αὐτὸς οὕτως περιπατεῖν.
カソス  その方    歩んだ       彼自身 ホウトス   歩む
 
 
 それゆえ岩波翻訳委員会訳は、このように訳されています。
 

彼のうちに留まっていると言う者は、その者自身もあの方が歩まれたように[そのように]歩むべきである
 
 
 言うまでもなくヨハネは、キリストのように歩むことを強調しているわけです。
 
 
神に対する責任
 
「なければなりません」と訳されているのはオフェイローという言葉です。
 
 辞典はオフェイローについて、
 
新約聖書では人間の倫理上の責任を表現する」と説明しています。
 
 
 ヨハネはキリストのように歩むことを強調した上で、
 
 それが私たち信者の責任だと言っているわけです。
 
 
キリストのように歩む
 
 キリストのように生きることが私たちの責任だということですが、
 
 問題は「キリストのように歩む」ことが、具体的にどういうことかということです。
 
 ヨハネの言葉によれば、それはキリストにとどまることと深い関係があります。
 
 そこで次の箇所を引用してみました。
 
 
ヨハネ15:5 
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです
 
 
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら」とあります。
 
 これの答えをイエスさまが語っている箇所があります。
 
ヨハネ6:56 
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります
 
 
 エスの肉を食べ血を飲むこと、それがイエスのうちにとどまる秘訣だと言います
 
 では、イエスの肉を食べ血を飲むこととは、どういうことなのでしょうか?
 
 少し手前の35節で説明されています。
 
 
わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35節)
 
 
 これは、イエス自身が神の言葉であることを示す表現です。
 
 文脈から見ても、「わたし」という表現は御言葉と同義語として語られています。
 
 ですから聖書を読み、聖書の言葉がその人のうちにとどまっていること、
 
 それがキリストのように歩むための第一歩だということです。
 

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です詩篇119:105、口語訳 

 
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