「ヤーウェの客」とは何者か? 詩篇15篇
詩篇15:1~5
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。
神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。
金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。
この詩篇は神の民の理想的な品位を描写しており、
●1節
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
このようなニュアンスがあるため、
聖書注解者たちは、詩篇の著者が描いているのは旅人のことだと考えています。
そしてこの旅人のことを、「ヤーウェの客」と呼んでいます。
「聖なる山」は、契約の箱のあるシオンの山を指していると考えられています。
ヤーウェの客は、主の臨在を求めて旅をしています。
主の御前に出たいのです。
ダビデはそんな旅人のことを思いながら、
「聖なる神の前に出られるのは、どのような者でしょうか?」と、
問い掛けています。
エリコットによれば、
この節を新約的に言い換えると、
●4節前半
神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。
「神に捨てられた人」という表現には、非常な厳しさを感じます。
マースは、サウル王に関しても使われています。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。1サムエル記15:23
●4節後半
損になっても、立てた誓いは変えない。
直訳は「傷つける誓いを立て、それを変更しない」だそうです。
普通は相手のほうを傷つけるわけですが、
この箇所では敬虔な人が誓いを立てており、
たとい自分で自分を傷つけることになろうとも、誓いを変えることはないほど、
相手に対して誠実な思いを持っていると説明されています。
●5節
金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。
「罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない」の部分は、
新共同訳と同じように訳されています。
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。新共同訳
●おわりに
私たちは父なる神のご計画と恵みによって新約時代に生まれ、救われ、
「ヤーウェの客」となることができました(2テモテ1:9)。
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。2テモテ1:9
しかし一方では、サウル王のように「神に捨てられた者」が存在します。
そむくことが占いの罪で、不従順が偶像崇拝の罪であるなら、
すべてのクリスチャンがサウルと同罪のはずです。
サウルと私たち、一体どこが違うというのでしょう?
私たちが「ヤーウェの客」であれるのは、一重に主の恵みによるとしか思えません。
この恵みを改めて感謝します。
この歌声は誰でしょう? 昭和な人ならわかるはず。
↓最後までお付き合いくださり、ありがとうございました↓