ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

水と血によって来られた方とは? 1ヨハネ5:6~8

 
 水と血の意味について考えます。


ヨハネ5:6~8 
このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
 

 6節に「ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られた」とあります。
 
 この部分で「によって来られた」と訳されているのは、「エンエルコマイです。
 
 直訳は「~において来た」です。
 
 この表現と同じものが、1ヨハネ4:2にあります。

 
ヨハネ4:2岩波翻訳委員会訳
あなたがたは神からの霊をこうして知る。すべてイエス・キリストが肉体において到来したことを告白する霊はすべて神から出たものである
 
 
 5:6と4:2の共通点は、どちらも本物のメシアの特徴について述べていることです。
 
 ですから「水と血」という表現には、
 
 イエスが本物であることを証明する根拠としての意味合いがあるはずです。
 
 
 バイブル・ハブによると、この箇所の解釈は大きく2種類に分かれています。
 
 ①「水」をイエスの受洗と捉え、「血」を十字架刑と捉える解釈
 
 ②十字架での死後、イエスが脇腹を刺された時に流れ出た「血と水」だとする解釈
 
 
考察
 
 ①の説は、新約聖書全体の主張と矛盾するものではありません。
 
 しかし水が洗礼を表し、血が十字架を表すというのは、

 誰でも思いつきそうな解釈です。
 
 加えて、1ヨハネヨハネ福音書において、
 
 真のメシアを見分ける根拠として、洗礼が語られたことは一度もありません。
 
 ですから①がヨハネの考えだと断定するのは、極めて唐突で疑わしいと言えます。  
 
 
 次に②の説について考えたいと思います。

 
ヨハネ19:34~35 
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者あかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。

 
 ②の説の根拠になっているのは、上記にある「血と水」です。
 
 この箇所の茶色の強調部分を見てください。
 
 ヨハネはいくつもの言葉を使い、

 自分の証言が真実であることを、読者にわかってもらおうとしています。
 
 彼がこの目撃証言に、相当の重点を置いていることの現れです。

 しかも、イエスの体から血と水が出たことを記しているのは、ヨハネだけです。

「血と水」による証拠は、彼の専売特許なのです。
 
 
 ヨハネが上記の箇所で証明しようとしているのは、
 
 メシアが人として地上に来たことと、メシアが死んだという事実です。
 
 メシアの人性については、福音書の1:14でも述べられています。
 
 
ヨハネ1:14 
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
 
 
 人として来られたイエスを証する重要性と、1ヨハネの関連については、
 
 以下の引用が詳しく説明しています。

 
エスの死を確認する:「血と水」は、なによりもイエスの死が確かであることを確認したことを意味します。ヨハネ共同体の頃にも、十字架上のイエスは実は「ほんとうの」イエスではない。キリスト(救い主)としてのイエスの霊はすでに十字架上には存在せず、イエスの死に先立って「天に戻っていた」という説がありました。これは「キリスト仮現説」(「ドケティズム」 "docetism" )と言われる説で、人間としてのイエスは、本当のキリストではなく、キリストが「仮の姿」をまとっていたにすぎないという見方です。ヨハネ福音書イエス・キリストに、このような仮現説を読み取ろうとする解釈が現在でも存在します(例えばエルンスト・ケーゼマン著『イエスの最後の意思』)。グノーシス派と呼ばれる人たちが、自分たちの仮現説を支持するために、ヨハネ福音書を彼ら流の仕方で引用したことも、このような解釈の一因となっています。
 しかし、この問題に対して、ここ34節が、はっきりとした答えを出していると言えます。なぜなら、ここでは、人間としてのイエスが死んだことだけでなく、神から遣わされた「御子イエスの死」こそが、ここでヨハネ福音書が伝えようとしている大事なメッセージだからです(ヨハネ3章16節)。この世は、神が遣わされた御子を「受け容れなかった」のです(ヨハネ1章11節)。仮現説は、その後、キリスト教では異端とされますが、ヨハネ共同体から生まれたヨハネ福音書は、仮現説と向き合い、これを否定する最初期の段階の文書だと言えるかもしれません。イエスは、十字架の死を通ることで初めて、キリストとしての業を「成し遂げ」ました。「イエス・キリストは、水と血を通って来られた方」(第一ヨハネ5章6~10節)だからです。だから、「イエス・キリストが肉(人間)となって来られたことを告白する霊こそ神の霊です」(第一ヨハネ4章2節)であり、これを認めない霊は偽預言です(同1節)。これが「血と水」が表わす大事な意義の一つです〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
 
 
 
確認
 
 こういうわけで、②の解釈が正しいと思われますが、
 
 1ヨハネ5:6以降の脈絡の中で、整合性があるかを確認したいと思います。
 
 数節後の1ヨハネ511で、ヨハネは次のように言っています。
 
 
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということですヨハネ5:11
 
 
 信じる者に永遠のいのちを与えるには、

 ①メシアは肉体を持っていなければなりません。
 
 罪汚れなのない肉体を持つ生贄だけが、信じる者の罪を赦す効力を持つからです。
 
 肉体を持たない存在が十字架についても、人間の罪の贖いにはなりません。
 
 肉体を持たないなら、人間を代表することにならないからです。
 

 ②生贄が死ぬことが必要です。
 
 一度死んで蘇らないことには、死を克服することになりません。
 
 永遠のいのちを他者に与えるたは、メシアは死を克服していなければなりません。
 
 ムハンマドブッダに救いがないのはこれらの条件を満たしていないからです。
 
 ですから、肉体を持つメシアが死んだことを「水と血」によって証明することは、
 
 真の贖いがなされたことの証明として是が非でも必要です。
 
 ヨハネは1ヨハネ5:6で、極めて重要なことを述べているのです。

 
 
   ビデオにも、ヨハネらしき青年が描写されています。

   ヨハネは自分の目で、十字架のメシアを目撃した」のです。
 
 
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