聞かれた祈り 1ヨハネ5:15
説明が少しくどいかもしれませんが、敢えてこだわってみました。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
説明1
「神が聞いてくださると知れば」の部分には、
通常は、エアンの後ろに来る動詞は仮定法になります。
実際、14節や16節はエアンの後ろの動詞は仮定法になっています。
通常:エアン+仮定法
しかし15節だけは動詞が仮定法になっておらず、直説法で書かれています。
15節:エアン+直説法
このことは、エアンを使いつつも、
エアンの後ろに来ている「聞いてくださると知る」という部分が、
すでに明確になっていることを物語っています。
事実上この部分の「知る」は、霊的な確信と言ってもいいものです。
説明2
「知る」という動詞が、現在形ではなく完了形で書かれています。
なので、「すでにわかっている」というニュアンスがあるはずです。
ポイント1と2を合わせて訳してみるとこうなります。
神が私たちに(今)耳を傾けていることがすでにわかっているならば・・・
説明3
「私たちの願う事を」の「願う」の部分は、エアン+仮定法で書かれています。
なので「何を私たちが願うとしても」というのが直訳です。
説明4
また「神に願った」の部分は完了形ですので、
厳密には「願い終わっている」というニュアンスがあります。
説明5
「今、持っている/所有している」というニュアンスがあります。
以上を考慮して全体を直訳すると、こんな感じです。
たとい私たちが何を願おうとも、
神が私たちに耳を傾けておられることを私たちがすでにわかっているなら、
神に願い終わった願い事を、私たちがいま所有していることがもうわかっているのです。
岩波翻訳委員会訳は、以下のように訳しています。
そして私たちが何を願おうとも彼は私たちに耳を傾けて下さるということがわかっているとすれば、彼に願ったその願いを〔すでに与えられたものとして〕手にしていることも私たちは知っている。
●感想
私訳の「すでにわかっている」(エアン+直説法)の部分は、
霊的な確信と言い換えてもいいと思います。
自分の体験を交えて表現すると、
「祈りが答えられたことが、霊的な感覚ではっきりわかる」という感じです。
私の場合、確信に加えて「平安」が伴う場合が往々にしてあります。
その場合、願ったものが目の目の前に存在していなくても、
すでに「所有している」のと同じことです。
それが実際に与えられるのは、時間の問題だからです。
同じような体験のある方は、うなずいていただけるかと思います。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
へブル11:1
↓最後までお付き合いくださり、ありがとうございました↓