【短編】神の馬車とは? 詩篇18篇 その2
10節には、主が「ケルブに乗って」飛ぶと書かれています。
私はこの部分が面白かったので、少し調べてみました。
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。
主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。
すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。
主がお怒りになったのだ。
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。
主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。
主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。
矢のように「素早く飛ぶ」という意味でした。
鳥が獲物をめがけて「滑降する」ときに使われる言葉だそうです。
いずれにしても、ケルブのスピードはそうとう速そうです。
2サムエル記の並行記事では、少しだけ違っていました。
主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現われた。2サムエル22:11
●神の馬車ケルブ
エゼキエル1:15~21
わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。・・・
生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。
それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
上記の箇所にもケルブが出てきます。
このケルブに乗って、主が移動すると言われていることから、
聖書注解者たちは、ケルブを「神の馬車」と呼んでいます。
新改訳ではこの箇所は「車輪」ではなく「輪」と訳されています。
そのため馬車をイメージしにくいですが、
新共同訳では「車輪」と訳されているので、馬車がイメージできます。
厳密には「リム」を意味します。
(リムというのは、現代で言うと、タイヤを装着する金属の輪の部分です)
新共同訳で読むと、サタンもケルブとして創造されたことがわかります。
エゼキエル28:14 (新共同訳)
わたしはお前を、翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。
ということは、サタンにも「車輪」があるはずですね。
ですが、映画などで描かれているサタンには車輪がありません。
誰もサタンを見たことがないのでしょう。
●おわりに
私たちはケルブの馬車には乗れませんが、
主は私たちのしもべとして、天使を遣わしてくださいました。
私たちが救いを相続するためです。
その愛と配慮に感謝します。
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。へブル1:14
4:25くらいからエゼキエルの箇所が出てきます(馬車ではありませんが)。
いつも応援してくださり、ありがとうございます(^o^)/