黙示録と今日与えられる啓示の違い 黙示録1:1~3
黙示録1:1
使用箇所の一例として、次の箇所があります。
ルカ2:32
これまで覆われていたものの覆いが取り去られ、
隠されていたものが露わになる、というニュアンスがあります。
「神がキリストにお与えになったもの」というフレーズからわかることは、
啓示の根源が「神」であるということです。
ダニエルもネブカデネザル王に、同じことを語りました。
ダニエル2:28
天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。
「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示す」:
「しもべ」は、神の計画が事前に啓示される人々のことを指しており、
まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
預言者的な使命が与えられていたことを示しています。
●2節
黙示録の注解書を執筆したロバート・マウンスによれば、
神が語ったメッセージを、キリストが確かなものとして証言した、
という意味があるそうです。
また、文末の「あかしした」の部分が、アオリスト過去形で書かれていることは、
ヨハネが黙示録の内容の部分(4節以降)を先に書き終え、
その後で1:1~3の前書きを書き足したことを示しています。
●3節
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
マウンスによると、
「朗読する」というのはユダヤ的な慣習のことで、
会衆の前で公に読み上げることを示しているそうです。
「幸い」という言葉は、山上の垂訓で使われている言葉と同じです。
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみを受けるであろう。
幸いだ、心の清い者たち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は、彼らのものである。
岩波翻訳委員会訳マタイ5:3~10
●おわりに
1コリント14:26(新共同訳)
兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示(アポカリュプシス)を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
上記に書かれているとおり、
神さまは現代の私たちにも「啓示/アポカリュプシス」を与えます。
それはすべての信者に与えられ得るもので、
教会の建て上げのため、集会で分かち合うよう勧められています。
しかし同時に、そういった啓示は、聞き手が吟味するよう勧められています。
1コリント14:29、1テサロニケ5:21、1ヨハネ4:1参照
与えられた啓示が、受け取り手から見て鮮明だったかどうかは重要ではありません。
吟味するのは聞き手だからです。
また与えられ方が衝撃的であれば吟味しなくていい、ということにもなりません。
本当に良いものだけを、守るように勧められているからです。
一方、聖書の一部になった啓示は、神から発し、キリストによって示されています。
内容については、朗読し、聞き、心に留めるよう勧められています。
地上で生きている間中、それらの教えに留まるよう命じられています。
両者の違いが大きいことは、言うまでもありません。
これらの違いを覚え、賢明に対応していきましょう。
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