「御霊に感じる」の意味 黙示録1:10
ワードスタディーです。
黙示録1:10~11
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
●「主の日」とは何の日か?
「主の日」の意味は注解者によって解釈が分かれています。
ある人は「日曜日」のことだと言い、ある人は再臨(携挙)の日だと考えます。
「主に属する日」(主が復活された日)という意味であることと、
キュリアコスが使われている他の唯一の箇所が、
1コリント11:20の「主の晩餐」だということです。
(主が事を起こす日という意味ではなく、日にちを修飾する言葉として理解する)
1コリント11:20
しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
一方、携挙の日と解釈する理由は、2テサロニケ2:2に「主の日」とあることと、
1テサロニケ4:16~17で、黙1:10と同様に「ラッパ」が鳴っているからでしょう。
黙示録の「ラッパ」と1テサロニケの「ラッパ」は、
単語としては全く同じで「トランペット」という意味です。
2テサロニケ2:2
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
1テサロニケ4:16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
しかしテサロニケの「主の日」は、「主」という名詞+日で、
形容詞+日ではありません。
また、黙示録1:11では、「七つの教会」にメッセージが語られています。
「主の日」が携挙の日だとしたら、地上の教会にメッセージを語る意味がありません。
すぐに引き上げられて、天に来てしまうからです。
なので、「主の日」の意味は、日曜日と解釈するほうか適切だと思います。
●御霊に感じた?
ギノウメン エン プニューマ
私は~の状態にあった の中に 霊
なぜ、新改訳が「感じた」と訳したかというと、
ギノマイの原義はというと、
「存在するようになる、生まれる、~になる、~が生じる、起こる」です。
原文には、どういう状態かについては書かれていないため、
状態の解釈は、翻訳者の采配に任されることになります。
なので、新共同訳はこうなっています。
ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。
しかし原文では、ギノウメン/ギノマイの後ろは「御霊の中に」なので、
「御霊の中にいる状態」と解釈すればいいことであって、
あえて「感じる」とか「満たされる」とする必要はないと思います。
英語の聖書は、軒並み「I was in the Spirit/私は御霊の中にいた」ばかりです。
日本語の聖書では、前田訳がそのように訳しています。
前田訳:わたくしは主の日に霊のうちにあった。
ギノマイは、以下の箇所でも使われています。
使徒22:17
●感想
その状態を強調するためにギノマイを使かったのだと思います。
これを日本語で表現するのは、確かに少し難しいかもしれません。
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