ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

献金は神への礼拝だろうか?

 
 次のようなご質問をいただきました。

 
私の行っている教会では、献金する事は、礼拝の一部であり
賛美だけではなく、献金は神に対する礼拝だと言っています。
献金は確かに喜んで心で定めた金額を納める事は良いと思いますが、礼拝だと言われると違和感があります。
献金する事は礼拝なのでしょうか?
 
 
新聖書辞典
 
 質問者さんの意図は、「献金」を捧げることが霊的な意味での礼拝になるのか?
 
 ということだと思いますが、一応、教会で教えそうなこととして、
 
 日曜礼拝という儀式の一要素としての献金についても、
 
 ざっくり見ておきたいと思います。

 
 新聖書辞典のP1386を見ると、「教会礼拝」の内容の一つとして、
 
 第8番目に献金」(1コリ1612、ピリピ418と書かれています。

 
1コリント16:1~2 
さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。
私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい
 
ピリピ4:18 
私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です
 
 
 しかし辞典の執筆者は「新約聖書には・・・教会礼拝の内容明記はないとしており、
 
 礼拝の内容は推測に基づたものです。
 
 
霊的な礼拝
 
 ヨハネ42024のサマリヤの女の箇所で「礼拝する」と訳されているのは、
 
 プロスクネオーというギリシャ語で、「跪いて敬意を表する」というのが原義です。
 
 質問者さんが意図している礼拝は、基本的にこちらではないかと思います。
 
 その場合、献金することは「跪いて敬意を表する」ことにはなりませんから、
 
 プロスクネオーという意味の礼拝にはなりません。
 
 
 しかし新約聖書の中で「礼拝」と訳されている別の言葉にラトレイアがあります。
 
「(神への)奉仕service」という意味もあります。
 
 以下のブルーの部分はラトレイアです。
 
 
ローマ12:1 
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 
ヨハネ16:2 
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
 
 
 真摯な心で主のために捧げた献金は、ラトレイアに当てはまる場合があると思います。
 
 例えば、イエスさまはやもめの献金をほめましたが、
 
 あれはラトレイアと言えるかもしれません。
 
 彼女は自分自身と生活のすべてを神に捧げて神に「奉仕」したからです。
 
 また2コリに書かれているマケドニア教会の醵金は、ラトレイアになると思います。
 
 
ルカ21:1~4 
さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
 
2コリント8:1~5 
さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
 
 
まとめ
 
 答えはシンプルではないかもしれません。
 
 プレイス&ワーシップという意味では、献金は礼拝とは言えません。

 
 しかし神への奉仕という意味の礼拝であれば、正しい心で捧げた場合、
 
 神の側で礼拝として受け入れるかもしれません。

 
 アベルの捧げ物は、プロスクネオーではありませんでしたが、
 
 ラトレイアになっていたかもしれません。

 
創世記4:3~7 
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 
 
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