ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

選ばれた人々に注がれる神の特別な愛 その1


 
 カルビン主義の贖罪論は、全人類のための贖罪を否定し、
 
 特定の人々の贖罪のみがキリストによってなされたと教えます。
 
 逆にアルミニウス主義は、全人類の贖罪だけを肯定し、
 
 特定の人々のための贖罪を否定します。
 
 しかし多目的贖罪論は、聖書が両方語っていると考えます。
 
 
特定の人々のための贖罪
 
マタイ121(岩波翻訳委員会訳)
彼女は男の子を産むであろう。お前はその子をエスと名づけるのだ。なぜなら、彼こそが、彼の民をその〔もろもろの〕罪より救うからである。
 
 
 例えば上記の箇所では、天使はイエスが「彼の民」を救うと告げています。
 
「彼の」に当たるギリシャ語アウトゥーは、属格の人称代名詞です。
 
 それゆえ「彼の民」というのは、イエスに属する人々であることがわかります。
 
 全人類を指してはいません。
 
 
選びの民に向けられる神の愛
 
 神が不特定多数の人の中から一部の人々を選び出すとき、
 
 選ぶという行為自体が、一部の人に向けられた特別な愛を動機としています。
 
 以下はイスラエルの民が選ばれた理由を説明する聖書箇所です。
 
 
申命記4:37 (新共同訳)
主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された。
 
申命記7:7~8 (新共同訳)
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 
ホセア11:1 (新共同訳)
まだ幼かったイスラエルわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
 
 
選ばれた人々に対する主の救霊愛 
 
 一部の人を愛する神の性質は、新約にも引き継がれました(エペソ52527)。
 
 そしてその愛は、神による選びや救いに表れています。
 
 
エペソ1:4(新共同訳) 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました
 
1テサロニケ1:4 
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
 
2テサロニケ213 
しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。
 
 
 このように聖書は、神の愛にも、選びの根拠があることを教えています。


 ☆ ☆

 
 以下の箇所では、イエスに属する人々が「羊」と呼ばれています。
 
 
ヨハネ10:11、14~15 (塚本訳)
わたし良い羊飼である。良い羊飼はのために命を捨てる。
わたし良い羊飼である。わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。
父上がわたしを知っておられ、わたしが父上を知っているのと同じである。そしてわたしは羊のために命を捨てる。
 
 
 新改訳は、「わたしは・・・です。」と訳していますが、
 
 原文には「エゴ-・エイミ」と書かれています。
 
 ギリシャ語では「エイミ」だけで「わたしは~です」という意味になりますが、
 
 ヨハネはあえて「エゴー」をつけることで、「わたし」を強調しています。
 
 ですから塚本訳のように、「わたし~である」としたほうが、
 
 日本語としての強調のニュアンスが表れます。
 
 
 新改訳の11節欄外をご覧いただくと、エゼキエル341116とあるとおり、 
 
「わたしが良い羊飼いである」とイエスさまが言われたとき、
 
 エゼキエル341116を意識していたと思われます。
 
 というのは、「羊飼い」のギリシャ語はポイメンですが、
 
 七十人訳でエゼキエルを読むと、「牧者」が同じポイメンで書かれています。
 
 イエスさまがエゼキエル書を念頭に置いていたと仮定して、
 
 次の箇所を読んでみてください。
 

エゼキエル34:11~16
11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
 
 
 11節、12節、15節には「わたしの羊」とあり、ヨハネ1014と重なります。
 
 13節は、選ばれた人々が諸民族から救われることを語っており、
 
 16節はルカ15章の迷える羊の譬えを彷彿とさせます。
 
 加えて「エゴー・エイミ」は、「わたしはヤーウェである」という暗示ですから、
 
 ヨハネ10章がエゼキエル34章を背景にしていることは明白です。
 
 そして「わたしの羊」という表現は、主に属する特定の人々のことで、
 
 全人類のことではありません。
 
 ですから「良い羊飼はのために命を捨てる」というフレーズの意味も、
 
 主に選ばれた人々の贖罪を意味しています。
 
 ヨハネ10章は、選ばれた人々に対する主の救霊愛を語っているのです。
 
 つづく