「教える」という言葉の意味 1テモテ2:12 後半
前半からのつづき
①「パウロにおけるディダスコーの用例は少ない。これは、教えることが聖書と親密に結びついていたことに気づくなら、容易に理解することができる。聖書が知られていない環境で、「教える」という言葉を使うことは不適切であったのだ。・・・こういうわけで、パウロがディダスコーについて述べる場合、すべて自分自身の指導と関連した状況で述べている。」
2テサロニケ2:15
そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。
コロサイ2:7
キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
エペソ4:21
②「牧会的な目的」を持つディダスコー
次の聖句には、
教えることの目的は、信者を霊的に成熟させることであると書かれています。
コロサイ1:28
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
③使徒の教えを継承する人の責務、また資質としてのディダスコー
1テモテ4:10
これらのことを命じ、また教えなさい。
上記の箇所は、注目に値します。
「教える」という行為が、
使徒の後継者的存在であったテモテに課せられた、責務であったことがわかります。
同様に1テモテ3:2には、
監督の資質の一つとして「教える能力があり・・・」と書かれています。
1テモテ3:2
ですから、監督はこういう人でなければなりません。・・・教える能力があり、
次の聖句でも、使徒の教えを引き継ぐべき人の資質として、
教える能力が挙げられています。
2テモテ2:2
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
●まとめ
教えるということの定義をひとまとめにするのは難しいかもしれませんが、
ディダスコーには、概ね次のような意味合いがあると考えられます。
「霊的指導者や聖書教師の立場で、牧会的育成を目的として霊的真理を教える」
1テモテ2:12でパウロは、
何を教えるかには触れず、διδάσκεινを強調した上でそれを禁じました。
聖書中のディダスコーには、上記のような霊的意味合いがあったので、
何をどう教えるかについて言及する必要性を感じなかったのだと思います。
聖書中でディダスコーという語を使った場合、聖書自体がその意味を教えていました。
ですから「女が教えることを許しません」という場合、
上記でまとめたような意味において教えることが禁じられているわけです。
女性が、霊的指導者や聖書教師の立場で教えることは許されない、
ということです。
これは、1テモテ3章で、男性だけを監督に定めていることと一致します。
「男性」という意味もあり、監督が男性であるべきことがわかります。
逆にディダスコーの定義に当たらない教えであれば、
女性が教えても問題ないということです。
実際、1コリント14:26やテトス2:3は、女性に教えることを勧めています。
1コリント14:26
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
この箇所は、教会の公的集会(日曜礼拝)の持ち方を教えている箇所ですから、
女性も男性も、定期集会で毎週、霊的な事柄を教えるよう励まされています。
テトス2:3
同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
カロは「良い」、ディダスカロスは「教師」という意味で、
「良いことの教師」というのが原義です。
お年を召した女性は、「良いことの教師」になるべきだとパウロは言っています。
これらのことを考慮するなら、
女性は、牧師や聖書教師として教えることが禁じられているだけで、
普通に聖書を教えること自体は禁じられていません。
むしろもっと頻繁に教えるべきなのです!
特に教えの賜物が与えられている女性は、教えるように勧められています。
ローマ12:7
奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
「教える人」と訳されているのは、定冠詞+ディダスコーの分詞で、
男性とも女性とも書かれていません。
もし女性が教えることが完全にNGだったのなら、
パウロはこの箇所で、男女を明記していたはずです。
聖書の教えは、包括的に理解しなければなりません。
一部の箇所だけを曲解したり、
執筆者の意図していない意味で理解してしまうことがないよう注意しましょう。