ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「教える」という言葉の意味 1テモテ2:12 前半


 
1テモテ2:12 
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
 
 
 パウロは、「女が教えることを許しません」と言っているので、
 
 女性が教えることが禁じられているのは確かなことです。
 
 しかし重要なのは、

「教える」という言葉が原語においてどういう意味を持っていたかです。 
 
 
「教える」と訳されているディダスコーという語は、
 
 英語のteachや日本語の「教える」とは違う意味合いを持っています。
 
 
 この箇所を原文で見ると、διδάσκειν(教えること)が冒頭に来ており、
 
 パウロがこの言葉を強調していることがわかります。
 
 強調している反面、何を教えるかは述べられていません。
 
 ディダスコーすること自体を禁じています。

 ディダスコーに、独特の意味合いがあったことが推測できます。

 
 この記事では、


 を参考文献として、聖書中のディダスコーの使われ方を調べ、
 
 この言葉が持っている特別な意味合いを確認したいと思います。
 
 
 
七十人訳(TDNT第2巻、P137)
 
①TDNTは、七十人訳におけるディダスコーの使われ方について、
 
ディダスコーの具体的な対象は、神の意志である」と述べています
 
 以下は、その事例として挙げられている申命記の聖句です。
   

申命記4:1、10
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。
 
主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
 
 
②また別の説明としてこうあります。
 
七十人訳のディダスコーは、常に全人格的なことに関して述べている
 

申命記11:19 
それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。
 
 
③以下の箇所のディダスコーは、
 
イスラエルの民を神から引き離すため、組織だてられた体系的な狙いを伴っています。
 
 
エレミヤ12:16 
彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主は生きておられる。』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。
 
 
旧約聖書の後期に入ると、ディダスケインは、
 
神の意志を総体的に啓示した律法を詳しく解説する」という意味合いを持ちます。
 
 
2歴代誌17:7 
それから、彼はその治世の第三年に、彼のつかさたち、すなわち、ベン・ハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタヌエル、ミカヤなどを遣わし、ユダの町々で教えさせた
 
 

共観福音書のディダスコー(TDNT第2巻、P139
 
①「共観福音書は、ディダスコーがエスミニストリーにおける傑出した要素

  であったことを示している。」
 
 
マタイ11:1 
エスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。
 
マルコ4:1 
エスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
 
ルカ6:6 
別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
 
 
エスの教えの形態は、当時のユダヤ教の教師と同じだった
 

ルカ4:16~21
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。・・・「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(この箇所以降も参照のこと)
 

「自分が朗読した箇所に基づいて解説を行う手法は、後期ユダヤ教の教え方であった。」
 
 
ヨハネ文書におけるディダスコー(TDNT第2巻、P143)
 
①「ヨハネの書物におけるディダスコーは、神または御霊による教えであることがわかる」
 
ヨハネ7:35 
そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
 
 
②「直接的な霊感または啓示を含む

 
ヨハネ2:27 
彼の油がす べてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたが たはキリストのうちにとどまるのです。
 
 
キリスト教初期のディダスコー(TDNT第2巻、P145~P146)
 
①初期のディダスコーでは、「伝統的な言説からの移行が起こった」

 
使徒4:2 
この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
 

②「イエスが約束のメシアであることを、聖書から証明した」
 

使徒18:25、28
この人は、・・・エスのことを正確に語り、また教えていた・・・彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。


つづく