心配することは罪? マタイ6:25~34
この箇所には、「心配する」という言葉が何度も出てきます。
「心配してはいけません」と禁止の命令になっている箇所もあります。
だとすると、生活上の必要について「心配する」だけで罪になるのでしょうか?
この点について、考えてみたいと思います。
マタイ6:25~34
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。…
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
「思い煩う、気を逸らされる、心を配る」などの意味があります。
メリムナオーは、次の箇所でも使われています。
1コリント12:25
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
ピリピ2:20
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
こちらの場合、メリムナオーすることが肯定的な見方をされています。
ピリピの箇所では、
他のクリスチャンたちをメリムナオーすることが称賛されています。
これらのことからわかるのは、
心配すること自体が必ずしも罪になるわけではないということです。
ポイントは動機にあると思います。
不信仰を動機としていたり、自分のことが中心になっている場合は、
メリムナオーすることは御心ではありません(マタイ6章の場合)。
しかし互いへの愛を動機としている場合、
聖書はメリムナオーすることを肯定的な行為として、
場合によっては称賛に値する行為と見なしています。
そういうわけで、
自分に関する心配事がある場合は、次のような対処を取りましょう。
ピリピ4:6
何も思い煩わないで(メリムナオーしないで)、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。