万物の和解と普遍的贖罪
エペソ1:9~10
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
コロサイ1:19~20
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
多目的贖罪論の著者は、
どちらの箇所もキリストにあって万物が神と和解することを述べているとしています。
選ばれた人々は救いという形で神と和解しますが(コロサイ1:21~22)、
キリストを信じない人々や被造物は、別の形で神と和解します。
別の形というのは、
キリストのもとに万物が集められる(和解する)ということです(エペソ1:10)。
この万物の和解について、ウッドという聖書注解者はこう述べています。
この世の終わりに、万物はキリストのもとに集められる。これはキリストが傑出していることを示しており、宇宙の調和が元どおりに回復されることを約束している(ローマ8:18~21)。キリストの使命は人類を超えた広がりを持っており、宇宙的な次元を思わせる。
マーティン・ロイド・ジョンズは、次のように述べています。
完全な調和が、人間の内側にも人間同士の関係にも回復される。地上にも動植物にも調和が回復されるのだ!天にも調和が回復し、祝福に満ちた主イエス・キリストのもとですべてのものが回復し、主イエスが万物の頭となられる!主にあって、万物が再び一つにされるのだ。…
不信者を含め、すべてのものが神と調和するというのは、
どのような状態をいうのでしょうか?
一つのヒントは、次の箇所にあると思います。
ピリピ2:9~11
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ここに書かれているように、
万物が「イエス・キリストは主である」と告白する瞬間が将来訪れます。
それはもちろん、すべての人が救われるということではありません。
しかし不信者たちも、イエス・キリストが主であることを認め、告白するのです。
ギリシャ語学者のウースト博士は、この箇所について次のようにコメントしています。
「告白する」と訳されているのは、「公に告白する」という意味のギリシャ語である。その言葉は、「誰かに同意する」という意味で「告白する」ことを示している。いつの日か、父なる神が御子にお与えになった証のゆえに、全宇宙が神と同意することになるのである。
多目的贖罪論の著者は、ヘンリー・ブロチャーという学者の言葉を引用しています。
そのとき罪人たちは、真理を告白するよう強いられる。彼らが強いられるのは、真理そのものによってである。真理による圧倒的なまでの証拠と、霊的権威によってである。罪人たちはもはや逆らって理解したり、考えたりできなくなるのだ。キリストをとおして、神は全宇宙と和解することを良しとされた。そこには、反抗的なたましいたちもみな含まれている(コロサイ1:20)。(ブロチャー著「永遠の刑罰」P303から引用)
コロサイ1:20に「その十字架の血によって平和をつくり」とあり、
ピリピ2:8には「実に十字架の死にまでも従われた」とあるとおり、
万物の和解は、キリストの普遍的な贖罪に基づいています。
キリストが万人の罪を贖い、
被造物に悪影響をもたらした人類の罪の一切を処理したからこそ、
不信者も、またあらゆる造物も、神と和解できるのです。
万物の和解は、普遍的な贖罪に託された目的の一つだったということです。