青野太潮氏の問題点
その記事には、以下のような言説があります。
では、パウロが真に見ていたキリストとはどんな方なのか。彼はそれを「十字架につけられたままのキリスト」であると表現している。力なくうなだれ、息も絶え絶えになりながら、十字架の上で苦しみ続けられているキリストこそ、パウロが受け入れた真のキリストの姿だ、と語るのである。
(引用終わり)
●問題点
私が問題視するのは、「十字架につけられたままのキリスト」という主張です。
青野氏が何を根拠にそう主張しているのかを調べたところ、
「『十字架の神学』をめぐって」という青野氏の論稿の中で、
1コリント1:23、同2:2、ガラテヤ3:1を根拠にしていることがわかりました。
以下はその論稿の抜粋です。
1コリント1・23、2・2、そしてガラテア3・1において三回、いずれもキリストに懸かる形容詞としての分詞形でChristos estauro¯menos として用いられています(中略)。そして、それが現在完了形でありますからには、文語訳がガラテア3・1に関してだけではありますが正確に訳出していますように、
「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」と訳されなくてはなりません。「十字架につけられた」のは、「死んだ」と同様に過去の一回的な出来事ですから、たとえそれが分詞形においてであったとしても、点的な「動作の種類」(ドイツ語で Aktionsart)をもつアオリスト形の分詞になると考えるのが常識的でありましょうが、パウロはそこでこそ(!) 現在完了形を用いて、「イエス・キリストはいまなお十字架につけられたままでおられる」という言い方をしているのであります。
(引用終わり、強調はブログ主)
引用元:「十字架の神学」をめぐって14-(14)
●反証
文語訳・ガラテヤ3:1
青野氏が言われるとおり、
文語訳では「十字架につけられ給いしままなる」と訳されています。
この部分は、「十字架にかける」を意味する動詞が完了形で使われています。
しかし完了形で書かれているからといって、
動詞が描写している行為が現在も継続しているとは限りません。
完了形には歴史的用法(Historical Perfect)という用法があると述べています。
この用法には別の呼称もあり、「アオリスト的用法/Aoristic Perfect」、
「劇的用法/Dramatic Perfect」とも呼ばれます。
歴史的用法の定義は、
「used as a simple past tense without concern for present consequences」
「現在に及ぶ結果を気にせず、簡潔な過去時制として使われる」と説明されています。
そしてその実例として、次の箇所が挙げられています。
使徒7:35
「お遣わしになった」は、アポステローという動詞の完了形で書かれています。
しかしモーセが遣わされたのは遥か昔のことで、今はもう遣わされていません。
青野氏の言葉を借りるなら、アオリスト過去形で書かれるのが常識でしょう。
しかし使徒の働きの執筆者は、完了形の歴史的用法を用いました。
私は、ガラテヤ3:1などのスタウロオーの完了形も、同じことだと思います。
ガラテヤ教会にキリストの十字架という歴史上の出来事を思い起こさせるため、
パウロは完了形の歴史的用法を使って描写したのです。
そう考えるなら、
新改訳聖書のように、通常の過去形と同じように訳すべきです。
新改訳・ガラテヤ3:1
●パウロにはない見解
1コリント15:3~8
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、…
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
パウロはコリント教会への書簡の中で、
「最も大切なこと」の一つとして、キリストの復活を述べています。
8節では、復活のキリストが「私にも、現われてくださいました」と言っています。
こういったパウロの言説を考慮すると、
「キリストはいまなお十字架につけられたまま」だと言うはずがありません。
●おわりに
使徒20:30
あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
上記のようにパウロは、
教会指導者の中から「いろいろな曲がったこと」を語る者が出ると警告しました。
福音主義を標榜するメディアや人物の言説であっても、
鵜呑みにすることがないよう、注意していきましょう。
パウロの宣教に同行したルカは、次のようにキリストの復活を証しています。
ここにはおられません。よみがえられたのです。ルカ24:6