ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

人から出たもの マタイ15:13


 
 少し後戻りします。
 
 
マタイ15:12~13 
そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかったは、みな根こそぎにされます。
 
 
 13節の「木」というのはフティアという言葉で、

「(人に植えられた)植物」という意味です。
 
 文脈的には、パリサイ人を指しています。

 
 フティアは、新約聖書ではこの箇所でしか使われていませんが、
 
 七十人訳の2列王記1929、エゼキエル177ミカ16で使われており、

 どれも「ぶどうの木」を指しています。
 
 
2列王記19:29 
あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
 
エゼキエル17:7 
さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。
 
ミカ1:6 
わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。
 
 
 特にエゼキエル17章の「ぶどうの木」は、

 主に根こそぎ引き抜かれるイスラエルを譬えています(9節)。
 

 どうやらイエスさまは、
 
 パリサイ人と「反逆の家」であるイスラエル(エゼキエル1712)を、
 
 重ね合わせているようです。
 
 
文脈
 
マタイ15:11 
口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。
 
 
 しかし11節と18節で繰り返されているとおり、
 
 15章前半でイエスさまがテーマにしているのは、人の「口から出るもの」です。
 
 パリサイ人に関して言うなら、彼らの教えということになります。
 
 20節に至っても、

 イエスさまは「洗わない手」の話(パリサイ人の教え)をしています。

 つまりパリサイ人の教えは(神からではなく)人の「口から出たもの」であり、
 
 それゆえ「悪い考え」だと、イエスさまは言っているわけです。

 またそういう教えは人から出たものであるがゆえに、

「人を汚す」と教えています(19節~20節)。
 
 
適用
 
 こんにちの福音派では、聖書の教えの中に、
 
 ヒューマニズムなどの人の考えが混ぜ込まれて教えられています。
 
 ですからそういう教えや既成概念に、注意しなければなりません。
 
 人から出たのものは、人を汚すからです。
 
 
 先日、「私はホモセクシュアルを肯定しませんし、すすめませんが、裁きません
 
 というコメントをしてきた方がいらっしゃいました。

 そしてその方は、そのような姿勢を「愛」と呼んでいました。 
 
 一見、聞こえはいいのですが、最後の「裁きません」という部分に問題があります。
 
 なぜかというと、同性愛を行なっている人がいても、
 
 それが罪だと指摘しないと言っているからです。
 
 つまり見て見ぬふりをし、「それは罪ですよ」と教えてあげないのです。
 
 同性愛の人は、それが罪ではないと思い込んだまま同性愛を実践しつづけます。
 
 その結果、その人は天国に入れなくなるのです。
 
 
1コリント6:9~10 
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません
 
 
 人間的には厳しく思えても、罪は罪として指摘し、
 
 それを捨て去るよう勧めてあげるほうが、イエスさまの教えに叶っています。
 
 
マタイ18:8 
もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
 
 
 人から出た考えは、こんにちのクリスチャンの間にも見られます。
 
 そしてそれは、人を汚します(神から引き離します)。

 人から出た考えと神の教えを混同しないよう、くれぐれも注意しましょう。