ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

断腸の思い? マタイ15:32


 
 良く聞く話だとは思いますが、一応ワードスタディーします。
 
 
マタイ15:32 
エスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
 
 

「かわいそうに」と訳されているのは、スプランクニゾマイという言葉です。
 
「スプランクナ」という語に由来していますが、スプランクナの意味は「内臓」です。
 
「特に心臓、肺、肝臓、腎臓などの臓器を指す」と辞典で説明されています。
 

 後にこれらの臓器は、「感情が存在する場所」として理解されるようになり、
 
 最終的にスプランクニゾマイは、
 
「同情する、憐れむ、感動する」という意味になりました。
 
 
 岩波翻訳委員会訳は、この箇所をこう訳しています。
 
 
そこでイエスは、その弟子たちを呼んで言った、「この群集に対して、私は腸のちぎれる想いがする。というのも、彼らはこれでもう三日も私のもとにいるのだが、何も食べる物を持っていないのだ。だからといって、私は彼らを空腹のまま帰らせたくはない、彼らが道すがら倒れてしまわないかと〔気が気ではないからだ〕」。
 
 
 上記の訳語は、「断腸の思い」を言い換えたものです。
 
 ちなみに「断腸の思い」の語源は、以下のとおりです。
 
 
「腸」は、はらわたのことで、「断腸」は、はらわたを断ち切ること。
きわめて悲しみの深いことを形容することば。
世説新語・黜免』にある以下の故事に基づく。

晋の武将桓温が船で蜀に攻め入ろうとして三峡を渡ったとき、その従者が猿の子を捕らえて船に乗せた。
母親の猿は泣き悲しみ、が連れ去られた子猿の後を百余里あまりも追った
ついに母猿は船に飛び移ったが、そのままもだえ死んでしまった。
母猿のはらわたを割いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。 
 
 
 
 この桓温の話は余りにも不自然なため、作り話だろうと言われていますが、
 
 内臓と感情が関連しているという点では、プランクニゾマイの由来と似ていますね。
 
 スプランクニゾマイは、次の箇所でも使われています。
 
 
ルカ15:20 
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。