ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

呪いの断ち切り


 
 先日律法の新約的意義に関して記事を書きましたが、この記事に関連して、ある方からご質問をいただきました。
 
 その方の疑問は、レビ記19:19あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない」や、旧約聖書で禁じられている食べ物(豚肉など)についてでした。
 
 私が(電子メールで)お答えしたところ、その答えを記事にした方がいいというアドバイスをいただきました。
 
 なので、多少加筆して記事にしてみました。
 
 
ガラテヤ3:10
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
 
 
 10節の「律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです」という部分は、原文でも現在形で書かれています。
 
 それが意味するのは、パウロがガラテヤ書を書いている時点において、律法が有効であるということです。有効だからこそ、呪いが生じるのです。無効だったら呪いは生じません。
 
 ですから、新約時代に移行したことによって律法が無効になったのなら、「のろいのもとにあった」と過去形で書かなければなりません。
 
 こんにちでも律法が有効であることについては先日の記事でも述べたとおりです。
 
 
 しかし律法はこんにち、旧約時代と同様の拘束力を持っているわけではありません。例えば次の箇所は、以前は汚れているとされていた食べ物が、こんにちはきよめられたことを教えています。
 
 
使徒10:11~15 
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
 
しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。
 
 
 福音書パウロ書簡でも、同じことが言われています。

 
マルコ7:19 
エスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
 
ローマ14:20
食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。
 
 

十字架による呪いの断ち切り 
 
 では、どうして汚れていたものがきよくなったのでしょうか?その答えに行く前に、まずどうして被造物が汚れたかを振り返りましょう。
 
 
創世記3:17~18 
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
 
 
 上記にあるとおり、アダムが罪を犯したことにより、地球は呪いを受けました。レビ記に見られる汚れたものときよいもの区別は、この呪いと関連していると考えられています。
 
 
レビ記11:12、27
水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。
 
 
 ひれや鱗のない魚は、川底や海底、つまり地球に直に接して生活しています。それゆえ神は、忌むべきもの(汚れている)と言っているのです。
 
 同様に、ひづめがなく、地面に直接接して歩く動物(足のふくらみで歩くもの)は、汚れているとされました。
 
 これらの禁止条項は、罪による呪いをユダヤ人たちに思い起こさせる目的があったと考えられています。
 
 
ガラテヤ3:13 
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
 
 
 しかしキリストが自らの存在に呪いを引き受け、呪いそのものとなって死んでくださったので、それによって呪いが断ち切られました。キリストの贖罪には、人だけでなく万物の贖いの効力があるのです。
 
 先に引用したマルコ719にあるイエスさまの発言は、近未来にご自身が成し遂げるところの十字架を見据え、それにおける呪いの断ち切りを土台としたものだと言われてます。
 
 このように、キリストの十字架によって呪いが断ち切られた(贖われた)ので、もはやレビ記にあるような汚れたものときよいものの区別は不要になったのです。

 
 
異邦人の救いのため
 
 十字架による呪いの断ち切りの最大の目的は、汚れているとされていた異邦人をきよめ、救いに預からせるためでした。以下の箇所をご覧ください。
 
 
使徒11:9~18 
すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。
そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。
 
 
 幻の中でペテロが聞いた語り掛けは、初めは食べ物のきよめに関するものでした。しかしそれは同時に、異邦人のきよめを象徴していたのです。

 神は、キリストの十字架によって異邦人をきよめました。その目的は、異邦人を救いに預からせるためだったのです。


完成は終末時代

 しかしアダムの罪の影響が完全に消え去ったわけではありません。現時点においては、人も万物も依然として完全なる解放を待ち望んでいる段階にあります。
 
 
ローマ8:19~22 
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
 
 
 罪の影響からの完全な解放は、再臨以降の終末時代に成就します。そのときクリスチャンは、肉の体が栄光の体に変えられます(ローマ8:21、23)。

 万物は、その瞬間を待ち望んでいるのです。楽しみですよね。私たちもキリストの再臨を待ち望みましょう。